第3章
部屋が息苦しくて、ただ外に出ただけだった。執事に付き添わせて、少し歩けば気が紛れると思ったのに。
まさか――こんな厄介者に絡まれるとは。
神宮寺玲央は薄い唇を開き、きちんと言い聞かせようとした。
結婚する気などない。するつもりもない。だから諦めろ、と。
だが言葉になる前に、唇にひやりと柔らかなものが触れた。
「――っ」
玲央の身体が、びくりと硬直する。
頭の中で何かが爆ぜたみたいに、真っ白になった。
視線を落とすと、小さな少女が潤んだ瞳でぱちぱち瞬きをしながら見上げている。唇はまだ、ぷくっと拗ねたみたいに突き出したまま。
唇に残るのは、甘いミルクみたいな匂い。
熱い、と感じた瞬間、玲央は慌てて目を逸らした。黒髪の奥の耳元が一気に赤くなり、その赤みはみるみる広がっていく。
神宮寺玲央は元来、人を寄せつけない。
冷淡で、情など抱いたこともない。
医者は皆、口を揃えて言った。二十五までは生きられない、と。
生まれつき身体が弱く、毒が回れば理性も飛ぶ。発作の時は身内さえ分からない。
そんな男と一緒にいたい者など、いるはずがない。
なのに目の前の少女は、平然と「旦那さま」と呼ぶ。
怖がるどころか――キスまでした。
おかしい。
嫌悪が湧かない。
それどころか、胸の奥が妙にざわつく。
玲央は睫毛を伏せ、荒れる感情を押し殺した。
自分は、どうかしている。
結婚など祖父を黙らせるための方便に過ぎない。真に受けるな――そう思うのに。
朝比奈澪は玲央の葛藤など知らず、顎を上げてふん、と言い切った。
「知らない。私がキスしたんだから、あなたはもう私の人!」
反応が薄いと見るや、澪はきゅ、と玲央の裾を掴む。目尻を下げて、今にも泣きそうな顔。
「一生一緒って言ったもん。指切りしたもん!」
俺が……?
玲央の脳裏で、霧がすっと晴れるような感覚が走った。
その時、澪の首元に黒い紐が見えた。
玲央の長い指先が軽く引っ掛けると、襟元に隠れていたペンダントがするりと出てくる。
半円の白玉。上等な玉だ。
掌に落ちたそれは、澪の体温を残していて――妙に熱い。
玲央は自分の首元のペンダントを外し、重ね合わせた。
輪郭も、透かし彫りの文様も、ぴたりと噛み合う。
――一対。
思わず、笑いが漏れた。
顔を上げて澪を見ると、瞳の奥に自分でも気づかない柔らかさが宿っていた。
探し続けた。何年も、手掛かり一つなく。
それが今日、向こうから転がり込んできた。
追い返そうとした自分が、滑稽でならない。
「いつ、俺だと分かった」
澪は白い指を一本立てる。
「最初に見た瞬間!」
得意げに顎を上げる。その顔つきも、昔のままだ。
小賢しくて、愛嬌がある。
玲央の胸が、こつんと叩かれたみたいに跳ねた。痺れるような波紋が広がる。
口元がわずかに上がり、凪いでいた瞳に愉しさが差す。
だが次の瞬間、執事の言葉が脳裏を刺した。
朝比奈家が、澪を「取引」に使ったこと。
十数年を外で過ごし、ようやく家族を見つけたばかりの少女に突きつけられた現実が、どれほど残酷か。
玲央の表情が陰る。
「……決めたのか」
守る。
朝比奈家が澪を粗末にするなら、自分が引き取る。
死ぬまで、せめてこの子だけは。
澪は迷いなく頷いた。
「うん!」
玲央は身を屈め、腕で窓辺を塞ぎ、澪を囲い込む。
「朝比奈澪。俺を見ろ」
「な、なに……?」
澪はごくりと唾を飲み、至近距離の端正な顔を見上げる。心臓がばくばく暴れ出す。
近い。近すぎる。
玲央は低い声で、慎重に言葉を選んだ。
「朝比奈家はおまえを使って神宮寺家と取引した。……今なら、後悔する権利をやる。嫌だと言うなら、無理強いはしない」
「俺と結婚したら、もう後戻りはできない」
澪は小さな頭をぶんぶん振る。
「後悔するのはバカだけ!」
だって、こんなに格好いい旦那さま。
他の女に取られるなんて、絶対いやだ。
澪は堂々と見つめ、思わず口元をすすった。
……可口。じゃなくて、キスしたい。
顔を寄せようとした瞬間、玲央が先に身体を起こした。
「えー……」
澪は唇を尖らせ、露骨に不満を顔に出す。
玲央はその表情の変化を全部見ていて、黒い瞳にかすかな笑みが流れた。
「白石宗一、市役所へ」
白石宗一が目を見開く。
「玲央様……い、今、市役所って……」
「走らせろ」
玲央は短く命じ、上着のポケットから携帯を取り出して助手に電話を入れた。
二十分ほどで車は市役所前に停まり、助手が駆け寄ってくる。
「玲央様、ご指示の物を」
玲央は無表情のまま受け取り、戸籍と婚前契約書に目を走らせた。
深い瞳に、少しずつ熱が宿る。
「よく読め。問題ないなら署名しろ」
だが澪は眠そうに瞼を重くし、玲央の肩にもたれた。顎がこっくりこっくり揺れている。
玲央の言葉を聞きながら、甘えた声で囁いた。
「読みたくない……旦那さま、読んで……?」
頬を玲央の腕にすり寄せ、目を閉じる。
車窓越しにそれを見た助手は、言葉を失った。
数時間会わない間に、どこからこんな美少女を連れてきたんだ。
しかも女に興味ゼロのはずの玲央様が、苛立つどころか――完全に甘やかしている。
