第6章
神宮寺玲央は睫毛を伏せ、あの澄んだ瞳から視線を外した。
「違う。ただ――いつでも反悔する権利があるって、そう言いたいだけだ」
朝比奈澪はぱちぱちと瞬きをする。どうやら、玲央の言葉の意味が飲み込めていない。
「旦那さま、ちょっと待ってて」
次の瞬間、何か思いついたように目を輝かせ、黒いパールの小さな革靴でたたたっと駆けていった。
戻ってきた時には、両腕いっぱいの瓶や壺、さらに木箱まで抱えている。
玲央は弱々しく咳き込みながら問う。
「……それは何だ」
澪は口元の笑みを深くし、黒白のはっきりした瞳を星みたいにきらめかせた。床に並べた瓶瓶罐罐を指差し、真面目な顔で言う。
「私の嫁入り道具! 全部、旦那さまにあげる」
嫁入り道具――?
床に積まれた正体不明の品々を見下ろし、玲央は思わずふっと笑ってしまった。
その笑みが、ただでさえ整った顔立ちをいっそう眩しくする。
澪の頬に、そっと赤みが差す。
(やっぱり……旦那さま、すっごく格好いい)
(私が今まで見た中で、一番だ)
だからこそ、ここに残ると決めた気持ちは揺らがない。
「これ、私の秘蔵なの。全部あげる。これからは――私のものは旦那さまのもの!」
玲央は、あまりに真剣な顔が可笑しくて、目元を細めた。
媚びる者なら山ほど見てきた。骨董だの名医だの、女だの。
けれど、こんな「よく分からないもの」を差し出されたのは初めてだ。
「……で、これは何なんだ?」
「薬だよ!」
澪は当然と言わんばかりに胸を張り、一本ずつ指で示す。
「これは痛み止め。これは虫除け。これは体力つけるやつ……」
言いながら、白い玉瓶をひとつ取り上げて玲央の手にぎゅっと押し込んだ。
「これはね、旦那さまの体の毒を一時的に抑えられるの。でも五粒しかない。全部あげる」
玲央の空気が、ぴたりと変わった。
細長い目がすっと細まり、視線が刃のように鋭くなる。
次の瞬間、玲央は澪の肩を掴んだ。淡い声色の奥に、冷たい陰が滲む。
「……誰が言った。俺が毒を盛られてると」
その事実を知るのは神宮寺の一族だけ。
神宮寺宗一郎は口を酸っぱくして言っていた。外に漏らすな、と。
なのに――どうして、何の後ろ盾もないはずの少女が知っている?
まさか、探りを入れるために送り込まれた――?
澪は状況が飲み込めないまま、肩を強く掴まれて小さく声を漏らした。
「ひっ……」
反射的に身をよじり、必死に首を振る。
「だ、誰にも言われてない! 私が見て分かったの!」
玲央の険しい顔に、澪の胸に悔しさが込み上げた。
涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。止めようとしても止まらない。
その時、白石宗一が水を二杯持って入ってきた。
目に飛び込んだ光景に、心臓がひやりとする。
――玲央様、もう毒が回って……?
澪の顔色がみるみる赤くなっていくのを見て、白石は青ざめた。額に汗が滲む。
「玲央様! 落ち着いてください、手を離して!」
「玲央様! 朝比奈さんが……このままじゃ気を失います!」
玲央の黒い瞳が揺れ、凶気がわずかに引いた。
目を上げると、恐怖で曇った瞳がこちらを見ている。薄い霧を含んだ、震える目。
――俺は、何を。
玲央ははっとして手を離し、反射的に一歩退いた。
胸の奥に、冷たい水を浴びせられたような感覚が広がる。
白石は慌てて澪の様子を確かめ、息を呑んだ。
白い首筋に赤い痕。顎には擦れた跡まである。
肌が白いぶん、痛々しいほど目立つ。
玲央もそれを見て、喉の奥がきゅっと詰まった。
掌に残る体温が、やけに重い。
苦笑が漏れる。
――やっぱり、俺は厄災だ。
近づく者は皆、ろくな目に遭わない。
澪は床に座り込み、膝を抱えて小さく縮こまったまま、しゃくり上げる。目いっぱいの委屈を溜めて。
白石は胸が痛んだ。
(なんてことだ……こんな子に)
「朝比奈さん、大丈夫ですか」
そして必死に取り繕うように続ける。
「……玲央様は毒が回って、理性が飛んだだけなんです。どうか、恨まないでください……」
玲央も、どうしていいか分からないまま言葉を探した。
「……すまない。泣くな……」
涙が一粒落ちるたび、胸の奥が鈍く痛む。
女を宥めたことなど、一度もないのに。
澪は鼻をすすり、しゃがれた声で言い放った。
「家庭内暴力!」
玲央のこめかみに青筋が浮いた。
だが反論する余裕などなく、できる限り柔らかく言い聞かせる。
「……すまない。本当に俺が悪い。だから泣くな。頼む」
そして、視線を落としたまま続けた。
「見ただろう。俺は毒で、いつでも理性を失う。発作が来れば、身内さえ分からない」
「……だから、今なら引き返せる」
籍を入れていても、別々に暮らすことはできる。
祖父を黙らせるために、形だけ置く――それでいい。
玲央は瞳の奥の複雑さを隠すように、睫毛を伏せた。
この毒は胎内から。名医を集めても解けない。
発作の痛みを、誰も知らない。
時間が経つほど、性格も荒れていく。
澪みたいな子を傍に置けば――どう死ぬかさえ分からない。
勢いで入籍したのは、間違いだった。
そう思うほど、後悔が増す。
なのに、手放すという考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がざわつき、苛立ちに似た不安が湧いた。
澪は唇をぷうっと尖らせながら、そろそろと近づく。
「じゃあ約束して。これからは、二度といじめないって。そしたら……今回だけ、許してあげる!」
玲央が呆気に取られていると、澪は小指を差し出し、玲央の垂れた指にちょん、と絡めた。
「ほら、早く」
玲央は目を上げ、真剣に頷いた。
「……すまない。誓う。二度としない」
澪はぱっと笑って、涙の跡を残したまま目を細める。
「えへへ! やっぱり旦那さま、私のこと好きなんだ!」
玲央の、二十四年間凪いでいた心に、初めて大きな波が立った。
胸の奥が、ひどく苦い。
玲央は静かに名を呼ぶ。
「朝比奈澪。俺に嫁げば、苦労する。それでも……後悔しないのか」
