第2章

綾辻穂弥視点

午後一時、私は心を込めて作ったお弁当を提げて、神崎投資グループの本社を訪れた。

エレベーターは一気に三十八階まで上昇する。最上階にある神崎空の角部屋のオフィスだ。床から天井まである大きな窓の向こうには、街の全景が広がっていた。

私は深呼吸を一つして、彼のオフィスのドアを押し開けた。

「空、お昼ご飯作ってきたの。あなたの好きなサーモンサラダよ」

私は努めて何気ない声で言った。

彼が顔を上げた。その深い瞳は、ひどく冷え切っていた。

「ありがとう。でも、もう出前を頼んだから。松川さん、綾辻さんを外までお送りしてくれ」

心臓が凍りついた。前世の光景が脳裏をよぎる。でも、今回は私たちの立場が全く逆だった。

「でも、あなたのために作り方を覚えたのに……」

私は必死に言った。

「穂弥、会議中なんだ。用件だけ言ってくれ」

神崎空は顔も上げず、書類をめくり続けた。

周りの秘書たちがひそひそと囁き始めた。

「今日の綾辻さん、なんだか変」

「会社に来るなんて珍しい」

といった声が耳に入った。

恥ずかしさで顔が熱くなった。

でも、私は諦めなかった。

「じゃあ……今夜は家で待ってる」

神崎空のペンが一瞬だけ止まり、また動き出す。

「今夜は残業だ」

私は松川秘書にオフィスから「お送り」された。

私はビルの一階にあるカフェに座り、窓の外を流れる車の列を絶え間なく眺めていた。必死にこらえても、涙がこぼれ落ちた。

前世の同じ光景が頭の中で再生される。ただ、あの時はお弁当を手に私の前に立っていたのは、神崎空の方だった。

「君の好きなものを作ってきたんだ」

前世の神崎空は、瞳に期待を滲ませてそう言った。

私は顔さえ上げなかった。

「急用ができたから、また今度ね」

そうメッセージを送って、彼を追い返したのだ。

後になって、私は親友の矢口真央に自慢げに話した。

「あの時の神崎空の落ち込みよう、見せたかったわ。最高に面白かった。男は手綱を締めておかないとダメなのよ。簡単に手に入ると、ありがたみがなくなるから」

矢口真央は、私が意地悪だと言った。神崎空はあんなにいい人なのに、私が彼を苦しめている、と。

その時の私は、彼女の純粋さを笑い飛ばした。

今になってわかる。私は、とんでもない性悪女だったのだ!

彼が私を信じないのも無理はない。自分を守ろうとするのも当然だ。私自身が、彼に冷たい態度を取るように教えてしまったのだから。

翌日の午後、私は再び神崎グループに現れた。今度は、まっすぐ役員会議室に乗り込んだ。

楕円形の会議テーブルには十数人の役員が座り、議長席の神崎空が四半期報告を行っている最中だった。私が飛び込むと、全員が凍りついた。

「あなた、ネクタイが曲がってるわ。直してあげる」

私は大げさなくらい甘い声で言いながら、彼に歩み寄った。

神崎空の体がこわばった。

「穂弥、不適切だ」

でも、私はもう彼の隣にいて、ネクタイに手を伸ばしていた。

「すぐに終わるから」

会議室の空気が、まるで結晶化したかのように張り詰めた。役員たちの驚愕の視線が突き刺さるのを感じた。

私は彼の耳元に顔を寄せ、囁いた。

「今夜、待ってて」

神崎空の声が、低く警告を発した。

「いい加減にしろ、綾辻穂弥。ここは会議室だぞ」

彼の耳たぶがわずかに赤く染まったが、表情は険しいままだった。

彼が何かと戦っているのがわかって、余計に胸が痛んだ。前世の私は、こんな親密さを見せたことなんて一度もなかった――だから今、彼はどう反応していいのかわからないのだ。

その夜、私は海岸沿いの家で彼を待っていた。

暖炉ではパチパチと火がはぜ、オレンジ色の炎がリビングを照らしていた。私はシルクのナイトガウンに着替え、ソファで三時間も彼を待った。

神崎空が帰ってきたのは、十一時近くだった。リビングにいる私を見て、彼の足取りは明らかにためらった。

「どうしてまだ起きているんだ?」

彼はネクタイを緩めながら、疲労の滲む声で言った。

「あなたを待ってたの」

私は立ち上がって彼に歩み寄った。

「空、話があるの」

「話すことなど何もない」

彼は一歩後ずさった。

私は引かずに、さらに距離を詰めた。

「私たちのこと。私たちの結婚についてよ」

「穂弥、一体何がしたいんだ?」

神崎空の瞳に痛みがよぎった。

私は深呼吸をして、彼の首に腕を回した。

「空、愛してる。私たち、もう一度やり直したいの」

そして、彼にキスをした。

でも、ほんの一秒後、私は彼に強く突き飛ばされ、危うく転びそうになった。

「もうやめろ、綾辻穂弥!今度は何のつもりだ!」

彼の声はかすれ、その瞳に宿る痛みが私の心を砕いた。

「何って?何のつもりも――」

私は衝撃に目を見開いた。

神崎空は、泣くよりも辛そうな、苦い笑みを浮かべた。

「結婚する前も同じことを言ったな。そして翌日、桐生陸とD市へ行った。俺は一体、君にとって何なんだ?おもちゃか?」

私は呆然とした。

桐生陸……D市……。

前世の記憶が、津波のように押し寄せてきた。三年前、確かに私は一度だけ神崎空にキスをしたことがある。私たちが知り合ってから、初めての親密な瞬間だった。

神崎空は興奮して一睡もできず、翌日には大きなバラの花束まで買ってきてくれた。

それなのに、私はどうしたか?私は桐生陸とD市へ行き、ラブラブな写真をSNSに投稿しまくった。神崎空の目に必ず入るように。

その時の自分の理屈を思い出す。これはビジネスのための結婚なんだから、あまり調子に乗らせてはいけない。少し蜜を味わわせれば十分だ、と。

ああ、あの頃の私は、一体何を考えていたんだろう?

「空、私は……」

説明したかったけれど、言葉が喉に詰まった。

どう説明すればいい?私が死に戻ったとでも言うの?前世の自分は最低の人間だったけれど、今は変わったのだと?

彼が信じるはずがない。

神崎空は私の表情を見て、その瞳から最後の希望の光が消えた。

「疲れた、もう寝る」

彼は背を向けて立ち去ろうとした。

「空、待って!」

私は彼の腕を掴んだ。

「前は私が悪かったってわかってる。でも、今度は違うの!本気なの!」

彼は立ち止まったが、振り返らなかった。

「穂弥、俺はチャンスをやった。何度も、何度もだ。でも俺はおもちゃじゃない。俺だって、疲れるんだ」

そう言って、彼は私の手からそっと腕を抜き、階段へと向かった。

「もう会社には来るな。お互い気まずくなるだけだ」

彼の声が、ひどい疲労を帯びて階段から響いてきた。

私はリビングに立ち尽くし、彼の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ついに涙が溢れ出した。

暖炉の火はまだ燃えているのに、今まで感じたことのないほどの寒さを感じた。

彼の信頼を取り戻すのが簡単ではないことはわかっていた。でも、これほどまでに難しいとは思わなかった。

前世の私がつけた傷はあまりにも深すぎた――もう一度私を信じるリスクを冒すくらいなら、自分を守ることを選んでしまうほどに。

でも、私は諦めない。

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