第2章

「なに言ってるのよ……」橋本美子は反射的に否定した。けれど瞳の奥の動揺は、もう隠しようがない。

「でたらめじゃない」

凛奈は氷みたいに冷えた目で、スマホの画面を指さす。

「十三年前、あんた――私がいたスラム街の孤児院に来てる。写真、撮られてる。拡大して見せてあげようか?」

画面には、まだ若い頃の橋本美子が写っていた。錆びた鉄門の前に立ち、果物の袋を提げ、露骨に嫌そうな目をしている。

橋本美子の顔色が、さらに悪くなる。

「私が人と飯を奪い合ってるのが汚いって思ったんでしょ。だから連れて帰らなかった」

凛奈の声には少しの温度もない。

「でも三年前、薬をむちゃくちゃ飲んで腎臓を壊した。こっそり私の血液型を調べて、適合するって分かった」

「それで『会いたくて頭がおかしくなりそうだった』みたいに演じて、貧民街まで来て土下座して、私を連れ戻した」

「最初から最後まで、欲しかったのは私の腎臓だけ」

橋本美子は唇を震わせ、言い返そうとして――言葉が喉につかえたまま出てこない。

「私を産むとき難産だった? でも私は、あなたに母親になってほしいなんて期待してない。だから、私はあなたに借りはない」

「橋本美子さん。腎臓は自分で腐らせて持ってなよ。私は絶対、提供しない」

橋本美子は力が抜け、床にへたり込んだ。

凛奈は見向きもしないまま、言い切る。「今日から、私は黒宮家を出る。あなたたちとは、もう何の関係もない!」

その言葉が落ちた瞬間、部屋にいる三人の呼吸が止まった。

――黒宮凛奈が、そんなことを言うはずが?

家族愛を誰より大事にして、何度だって「家族のためなら命でも差し出す」と口にしていたのに。

「黒宮凛奈、気でも狂ったか!」入り口で、怒りに割れた中年男の声が響いた。黒宮の父、黒宮誠也がやって来たのだ。

鍋底みたいに真っ黒な顔で踏み込んでくるなり、低い声で叱りつける。「血は水よりも濃いものだ! 勝手に出ていくなんて許さん!」

「血が濃い?」凛奈は怒るどころか、笑ってみせた。「じゃあ、誰が私のために血を一滴でも流したの?」

転生してからこの連中の顔を見た瞬間、胃がむかついた。時間が経つほど我慢は削れ、怒りが底からせり上がってくる。

「迎えに来たとき、バッグをいくつか、服を数着くれたよね。あれは私が橋本美子に腎臓を提供すると約束したからだ!」

凛奈の声は澄んで、床に叩きつけるみたいに強い。

「なのに次の瞬間、黒宮司奈が『欲しい』って言ったら全部持っていった」

「私がご飯を作って、生活の面倒を見てやっても、あなたたちは当然みたいに私を使用人扱いした」

黒宮家には姉妹のほかにも三人の兄がいる。けれど誰もが、露骨に、あるいは遠回しに言ってきた――黒宮司奈こそが永遠に本当の妹で、凛奈がその場所を奪うなんてありえない、と。

「私、黒宮司奈の代役を二年やった。一枚、何十万もする絵だよ? 私に一円でも払った人、いる!?」

そこまで言ったところで、黒宮誠也が怒号を上げて乱暴に遮った。「お前――!」

「お姉ちゃん、払う! 私のお金、全部あげるから!」黒宮司奈がすぐ泣き叫ぶ。「お願い、許して……!」

「黙れ!」黒宮誠也は唾を吐き捨てるように言った。「孤児院育ちは品がない! 金ぐらいで、こんな馬鹿げた真似をしおって!」

「そう、品がない。根にも持つ」凛奈はあっさりうなずく。「だから縁を切るだけじゃない。黒宮司奈のために描いた絵も、全部回収する」

そう言い捨てて、凛奈は花房へ向かった。

そこは美しく整えられ、「黒宮司奈が制作するための場所」だと何度も記者に撮られてきた。けれど実際は、凛奈が描き上げた絵を置いてあるだけ。凛奈の作業場所は地下室の小さな一室だった。

黒宮司奈が金切り声を上げる。「黒宮凛奈、なにする気!?」

凛奈は花房の扉を押し開け、机の上のテレピン油を手に取ると、ためらいなくキャンバスへぶちまけた。

どろり、と。絵具が血のように流れ落ちる。

「司奈の絵?」

「やめて――」黒宮司奈が飛びついた瞬間、凛奈は反手で黒の絵具をすくい取り、顔面へ叩きつけるように浴びせた。

「あああっ、目! 目が!」黒宮司奈は悲鳴を上げて転げ落ちる。

凛奈はカッターを握り、キャンバスを容赦なく突き刺した。刃が一気に走る。

ビリッ――。

キャンバスは真っ二つ。

一枚……二枚……三枚……。次々と裂かれ、細切れになった布と絵具が床に落ちて混ざり合い、ぐちゃぐちゃの泥の塊みたいになっていく。

「私があげたからあなたのものになる。あげなきゃ、ただのゴミ」

凛奈はカッターを床に放り投げ、散乱した床をまたいで、振り返りもせず玄関へ向かった。

「黒宮凛奈!」黒宮誠也の怒鳴り声がひっくり返る。怒りで全身が震えているのが分かった。「今日この門を出たら、二度と戻ってくるな!」

「いいよ」凛奈は即答した。目いっぱいの笑みを浮かべて。「その言葉、覚えたから。絶対、後悔しないでね!」

充電器すら持たずに、凛奈は黒宮家の豪邸を出た。

ここに一分でも長くいるだけで、吐き気がする。

かつては、どうしても家が欲しかった。けれど今は違う。家なら、自分で作ればいい。

実は東町にマンションを一室持っている。絵で稼いだ金で自分で買った。前世のこの時期、凛奈はまだそのことを黒宮家に話していなかった。

――幸いだった。

黒宮家から解放されて、眠ることさえ驚くほど楽になる。

翌朝、起きてスマホを流し見していると、またトレンドに黒宮司奈の名前があった。

一位は「#黒宮司奈AI換脸」。

開いてみると、所属事務所の担当が声明を出していた。あの動画はAI生成で、誰かの悪意ある捏造だ、と。

さらに黒宮司奈本人も投稿している。ぼんやりした写真が一枚。

添えられた文字は――

7月見。

七月。黒宮司奈は個展を開く予定で、チケットはすでに数千枚売れている。

そこで最新作を展示する――つまり、あの写真に写っている作品だ。

凛奈が描いた絵。司奈は一部だけ切り取って、分厚いフィルターをかけて、いかにもミステリアスに見せていた。

けれど誰が想像するだろう。今その絵は、跡形もなく破壊されて、ただのゴミの山になっているなんて。

個展の宣伝記事はもう大量に打たれ、黒宮家はトレンド枠も買い、今回の作品を天まで持ち上げている。

政財界の著名人を招いてのオープニング、トップスターも何人も――。

絵が出せなければ、黒宮司奈はこの世界で二度とやっていけない。

そこまで思って、凛奈は思わず笑い声を漏らした。

さあ、黒宮司奈はどうやって描き直すつもり?

そのとき、友人の竹内奈々から電話がかかってきた。

「凛奈! ついに司奈の代役、やめたんだって?」

凛奈は眉を上げる。「なんで知ってるの? まだ公表してないけど」

竹内奈々は遠慮なく笑い、何枚か画像を送ってくる。声もどこかひそひそと弾んでいた。「別の知り合いから回ってきたんだけどさ。誰かが大金出して数枚、模写してくれる人を探してるんだって。見た瞬間、これ、あんたのタッチじゃんって思って!」

画像を見て、凛奈は納得する。

昨日、凛奈が壊した絵だ。

黒宮司奈は以前撮っておいた写真をもとに、誰かに模写させて本物みたいに見せかけ、七月の個展を無難に乗り切るつもりなのだろう。

「面白い」凛奈は画像をすべて保存した。「向こうから証拠を差し出してくれるなんてね」

その直後、西島真尾からも電話が入った。

凛奈は小さく眉を跳ね上げたが、通話を取る。録音も、オンにした。

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