第3章
「凛奈、もう怒りは収まったか?」
受話器の向こうの西島真尾の声は、どこか疲れを滲ませていた。まるで悪いのは凛奈のほうで、彼が仕方なく宥めに来ている――そんな調子だ。
「用件は?」
凛奈が冷たく返すと、
「凛奈、もう意地張るなよ。俺がどれだけお前を愛してるか分かってるだろ。俺たち何年も一緒にいて、絆だってある。ちょっと喧嘩したくらいで終わるわけない、そうだろ?」
凛奈は呆れて笑いそうになった。
「ほんと、面の皮が厚いね」
「凛奈……許してくれ。俺、頭がどうかしてて、つい司奈と……あんなことに……」
「普通の人は頭がどうかしたりしないけど。薬でもやってたの? 更生施設に電話してあげようか?」
「ち、違う! 何言ってんだよ!」西島真尾が慌てて声を荒らげる。「司奈が誘ってきたんだ! 俺だってわざとじゃない!」
「へえ。黒宮司奈がそれ聞いたら、怒ってあなたのこと殺しそう」凛奈は録音中のスマホをちらりと見て、薄く笑う。
「司奈は……」西島真尾が言葉を詰まらせる。「司奈だって大変なんだ。お前が戻ってきてからずっと自信なくしててさ。お前に色々ねだるのも、自分にはまだ価値があるって確かめたいだけで……家族に忘れられるのが怖いんだよ」
凛奈は噴き出した。
「脚本家になれるよ。あんたの頭がおかしいからって、みんなもおかしいと思わないで。私を馬鹿にして騙せるとでも?」
「本当だ!」西島真尾が歯噛みする。「だから凛奈、司奈のことも少しは大目に見てやれよ。家に戻ってこい。絵の件だって、ちゃんと話し合える。いくら欲しい? 金なら出す!」
「結局、それが目的?」凛奈は最初から見抜いていた。
「いくら出すつもり? 黒宮司奈が替え玉に払った金より多い? それとも、都合のいい替え玉が見つからないの?」
「なっ……なんで知って――」
「カマかけただけ。まさか自分から認めるとはね」
竹内奈々のことを口に出すつもりは、凛奈にはない。
苛立ちが限界を超える。
「西島真尾。今の会話、全部録音した。これ以上しつこいならネットに流すよ。黒宮司奈がどんな人間か、みんなに見せてあげる」
そう言い捨てて電話を切り、そのまま西島真尾の番号をブロックした。
朝食を終えると、凛奈は部屋探しに出た。
もう一度、自分の仕事をやり直す。そのためには制作できる場所――アトリエが必要だ。
仲介に連絡して何件か見て回り、最終的に凛奈が選んだのはイビー・シティにあるシェアギャラリーの一室だった。
人生をやり直したばかりで、前世では稼いだ金も黒宮家の連中に吸い取られた。手元に金はあるが、余裕はない。だから高い部屋は無理だ。
担当者と契約を交わそうとした、そのとき。
相手の男が電話に出た。
そしてさっきまで愛想のよかった顔が、みるみる硬くなる。男は逡巡した末に言った。
「申し訳ありません。お貸しできません」
「料金なら調整できます。もう一度――」
「いえ、そういうことじゃなくて……お貸しできないんです。あなたには、どうしても」
凛奈は笑う。
「私、狙い撃ちってこと?」
その瞬間、背後から怒りを押し殺した男の声が飛んできた。
「司奈を狙い撃ちにしたとき、今日みたいな日が来るって想像しなかったのか?」
振り返ると、スーツを隙なく着こなした男が大股で迫ってくる。黒宮家の兄、黒宮京介。
眉間に深い皺を刻み、凛奈の手首を乱暴に掴んだ。
「お前に外で部屋を借りる資格があるのか? 家に戻れ。司奈に謝れ!」
「離して!」
手首の骨が潰れそうな痛み。振りほどけないと見て、凛奈は躊躇なく足を振り上げ――黒宮京介の股間を蹴り上げた。
「ぐあっ!」
想像もしなかった反撃。しかも急所。黒宮京介は手を放し、折れ曲がるように前屈みになって顔を歪めた。
凛奈は手を払うようにして整える。
「不動産屋のお兄さま。自分の仕事はぱっとしないくせに、仲介と組んで私に嫌がらせする才能だけは一流なんだね」
「黒宮凛奈! 調子に乗るな!」
痛みと怒りで顔色は青黒い。
「そもそも誰がお前を孤児院から引き取ってやったと思ってる? 恩を仇で返す気か!」
「利用する気満々なくせに、扱いは最低」凛奈は肩をすくめる。「それで恩返ししろ? あなたたちと一ミリでも関わるだけで吐き気がする」
黒宮京介は息が詰まったように顔を引きつらせた。
「今ここで叩き直してやる!」
手を振り上げた、そのとき。
少し離れた場所から、からかうような男の声が響いた。
「女に手ぇ上げるとか、どんな雑魚だよ」
黒宮京介の動きが止まり、凛奈も視線を向ける。
シャツ姿の男が、気だるげな足取りで近づいてくる。無遠慮な雰囲気と、妙に目を引く佇まい。
男は顎で凛奈を示した。
「部屋、借りたいの?」
「はい」凛奈は思わず見入ってしまい、数秒遅れて問い返す。「あなたは……?」
「神野怜司。ここのオーナー」
手をポケットに突っ込んだまま、視線だけで場を制圧する。
「誰が『貸せない』って言った?」
担当者は青ざめ、額に汗が浮いた。
「神野社長……本日いらっしゃるとは存じませんでした。申し訳ありません。お貸しできます」
「神野社長。私は黒宮不動産の黒宮京介です。うちの会社、名前くらいは――」
黒宮京介は慌てて名刺を取り出そうとし、「こちらは妹で、部屋は借りません! 私の躾が行き届かず――」といった。
「私はあなたと無関係」凛奈が呆れ笑いで遮る。
そして二歩で距離を詰め、黒宮京介の目を真っ直ぐに見た。
「そこまでして私と全面戦争したいわけ?」
「黒宮凛奈、忠告しておく――」
凛奈は脅しなど意にも介さず、にこやかに言う。
「ねえ。あなた、よく友達連れて自分の別荘で、ヤバいもの吸ってない?」
黒宮京介の顔色がわずかに変わる。
「それが何の関係がある」
「社会の治安はみんなで守るもの。地下室に保管してるの、フェンタニルでしょ。今から通報する」
そう言って、凛奈はスマホを取り出した。
「黒宮凛奈、お前――」
黒宮京介の顔色が一気に変わった。止める間もなく踵を返し、逃げるように去っていく。証拠隠滅に戻るつもりだろう。
だが別荘までは車で一時間。どれだけ急いでも、警察のほうが早い。
凛奈は電話口で位置を具体的に伝えた。
黒宮京介自身は使わなくても、ろくでもない連中と付き合っている。
前世の凛奈は最初それを知らなかった。別の人間に見つかって通報されたあと、黒宮京介と母親に土下座で泣きつかれ――罪を被ったのは凛奈だった。
「全部、私のものです」
そう言わされて。
母親に腎臓まで提供し、退院して間もない頃には、黒宮京介の代わりに三年の実刑まで食らった。
通報を終えると、凛奈は神野怜司に尋ねた。
「では、契約できますか?」
神野怜司は凛奈をじっと観察する。目の奥の色が読めない。口元には薄い、楽しげな笑み。
二秒ほど考えてから言った。
「契約はできる。ただし、賃貸契約じゃない」
軽く手を振る。
「このギャラリー区画、全部お前に使わせてやる。家賃もいらない」
凛奈が払える範囲では、せいぜいこの広さの二十分の一が限界だ。
目を見開き、信じられずに警戒する。
「条件は?」
「条件は――お前の今後二年の収入の20%」
神野怜司が少し身を屈め、凛奈と視線の高さを合わせる。
「誤魔化すなよ。帳簿は徹底的に見る」
凛奈は目を細めた。
「私が稼げるって、どうして思うの? 私の絵、見てもいないのに」
ふと、ある可能性が脳裏をよぎる。
「……私のこと、知ってる? あのとき――」
孤児院で出会った、あの人。まさか。
神野怜司は意味ありげに笑うだけで答えない。
「やるならサインしろ。迷ってる間に、チャンスは消える」
「……やる」
凛奈は深く息を吸い込み、この機会を掴むと決めた。
契約書に署名し、手続きを終えた頃には、ギャラリーに残っているのは凛奈ひとり。
数百平米の空間の中心に立ち、どう配置を組むかを思案する。
黒宮司奈は7月に個展を開く。
なら、こちらもやればいい。しかも、向こうより先に。
そう考えていたところで、スマホが鳴った。
発信者は父、黒宮誠。
出たくはない。だが何度も何度もかかってくる。仕方なく通話ボタンを押した。
「何?」
「お前のせいで母さんが入院した! お前が怒らせたんだ!」黒宮誠の怒鳴り声が受話器越しに響く。「さっさと見舞いに来い! この不孝者め!」
