第4章
入院したって?
もし前だったら、凛奈は今ごろ焦って罪悪感でいっぱいになって、泣きながら「すぐ行く!」って病室へ駆けつけていたはずだ。
でも一度やり直した今は、あの人たちが「家族」の皮を被って何をしてきたか、もう知っている。取り繕う気すら起きなかった。
「……ああ、わかった」
あまりに投げやりで、まるで人が死のうが死ぬまいがどうでもいいみたいな返事だった。
黒宮誠は一気に血圧でも跳ね上がったのか、怒鳴り声が電話越しに突き刺さる。
「なんだその態度は! お前の目に親情ってもんはないのか? お前のせいでお母さんは血圧が上がって、医者もこのままだと腎――」
「いいから。どこの病院?」
その一言で、黒宮誠の声がわずかに落ち着き、病院名を告げた。
通話を切ると、凛奈は最後にアトリエを一瞥してから立ち上がり、部屋を出た。
もちろん行く。
もちろん、橋本美子の枕元で親孝行をするためじゃない。言うべきことを、面と向かってきっちり言うためだ。そうしないと、また次も訳のわからない電話がかかってくる。
前の人生の私は弱すぎた。黒宮家の連中に、いいように握られていた。
今度は違う。
黒宮凛奈は、そう簡単に踏みにじれる人間じゃないって思い知らせてやる。
タクシーで病院へ向かい、病室の前まで来たところで、内側から黒宮司奈の声が聞こえた。
「全部、私のせい……私が……私が……っ」
息も絶え絶えに泣きじゃくる声。続いて、
「でも、お姉ちゃんだってこんなことしちゃ……ママ、身体が……」
耳に入れた瞬間、胸の奥がむかついて仕方がない。一言だって聞いていたくなくて、凛奈はそのままドアを押し開けた。
病室では、黒宮誠がベッド脇に座り、黒宮司奈が橋本美子に縋りついて泣いている。そして――三人の兄まで揃っていた。
黒宮京介は窓際で顔を真っ青にして立っていた。凛奈を見た目は、今にも噛み殺しそうなほどだ。
黒宮隼人と黒宮卓海はソファに座り、一人は俯いてスマホを弄り、もう一人は冷めた目で状況を眺めている。
「ずいぶん勢揃いね」
凛奈はドア枠にもたれ、軽い調子で笑ってみせた。
「ここで何? 家族会議でも開くつもり?」
そして、わざとらしく付け足す。
「兄さんもいるんだ。じゃあ、話はもう片付いたってことでいい?」
「まだ笑えるのかよ!」
黒宮京介が矢のように詰め寄り、指を突きつけた。
「俺を警察に突き出したのか!? 俺はお前の兄だぞ!」
「兄?」
凛奈は首を傾げる。
「今さら? その態度じゃ、知らない人が見たら仇か何かだと思うわよ」
黒宮京介は頬を震わせたが、言い返せなかった。
「ちょうどいい。みんな揃ってるし、いちいち呼び出す手間も省けた」
凛奈はバッグから、あらかじめ用意していた紙を一枚取り出し、広げてベッド脇の棚に置いた。
「……これは何だ」
黒宮誠が眉をひそめる。
「絶縁状」
凛奈は一語一語を噛みしめるように言った。
「今日から、私は黒宮家と一切の関係を断ちます」
「子どもの頃、あなたたちは私を一日も育てなかった。見つけ出してからも、私はあなたたちのために尽くしてきた。……もう、何も借りはない」
紙に視線を落とすことなく、言葉だけで突き刺す。
「これが私の答え。これから先、あなたたちが生きようが死のうが、路上で野垂れ死のうが――私には一ミリも関係ない」
言い終えた瞬間、病室は凍りついた。
「……正気かよ」
黒宮隼人が信じられないものを見る目で凛奈を見る。
「俺たちと縁を切るって? 黒宮家の地位がどれだけのものか、お前――」
黒宮京介も目を細めた。
「凛奈。今の、取り消せよ。……いや、取り消さなくていい。自分で言ったんだな?」
「私が言った」
凛奈は、目の前の「家族」を見据える。
「よく聞いて。忘れないで。胸に刻んで」
「お姉ちゃん、お願い……そんなふうにしないで……!」
黒宮司奈が凛奈の手を掴み、涙で顔をぐしゃぐしゃにして――床に膝をついた。
「全部私のせい! 私が出ていく、黒宮家を出るから……だからお姉ちゃんは行かないで……!」
「演技はいい」
凛奈はその手を乱暴に振りほどいた。
「黒宮司奈、その手は他人には通じるかもしれないけど、私には無理。――あなたがどんな人間か、嫌ってほど知ってる」
「その言い方は何だ!」
ついに黒宮卓海が立ち上がり、黒宮司奈を庇うように前へ出た。
「司奈は謝っただろ! それでもまだ追い詰めるのか? 死ぬまで追い込めば気が済むのかよ!」
「うん。追い詰めたい」
凛奈はあっさり認めた。
「私のものを奪うのが好きなんでしょ? なら今回は、黒宮家そのものを丸ごとあげる。足りる?」
「お前――」
「もういい!」
黒宮誠が怒号を飛ばした。顔色はどす黒く、眉間に深い皺が刻まれている。
「出ていきたいなら勝手に出ていけ! 黒宮家はお前なんぞいらん! だが、司奈のために描いた絵は、壊したならそれで終いだ。司奈の個展は予定通り開催する!」
「へえ?」
凛奈は眉を上げ、冷ややかに笑った。
「新しい代役でも見つけたの? それとも、またそのうち私を情で縛って、描かせるつもり?」
黒宮司奈の視線が揺れ、俯いたまま黙り込む。
――まだ見つかってない。凛奈にはそれが手に取るようにわかった。
「お前に関係ない!」
黒宮誠が鼻で笑う。
「お前がいなくても世の中は回るんだ。消えろ。今すぐ出ていけ!」
「お父さん、怒らないで……」
黒宮司奈が慌てて黒宮誠の腕を支え、涙声で取りなす。
「お姉ちゃんも、ただの衝動なの。落ち着けば、きっと――」
「悪いけど、私は一生、落ち着いて理解することはないと思う」
凛奈はそう言い捨て、踵を返した。
ドアのところで足を止め、振り向かずに言う。
「今回は、私のほうから要らないって言っただけ」
それきり、凛奈は病院を後にした。
病院の外に出ると、肺いっぱいに息を吸い込む。全身がふっと軽くなるのを感じた。
まるで鎖を外したみたいに。
ポケットのスマホが震える。竹内奈々からのメッセージだ。
『凛奈! 聞いて! 黒宮司奈、ほんとに代役探してる! しかも提示額がヤバい!』
凛奈は笑って、指を動かす。
『いくら?』
すぐ返事が来た。
『1枚10万ドル! 5枚描かせるって、合計50万!』
50万ドル。中流家庭なら一年分どころか、余裕で生活が成り立つ額だ。……相変わらず、派手な金の使い方。
黒宮家も、よくそこまで注ぎ込む。
凛奈は小さく息を漏らした。口元の笑みには、言葉にできない皮肉だけが滲む。
『まだ見つかってないんでしょ?』
『うん。あれは凛奈の癖だから。素人は誤魔化せるけど、分かる人には難易度バレバレ』
その文面を見つめていると、ふと脳内で何かが弾けた。
ひらめき。
次の瞬間には、計画が形を持って立ち上がっていた。
凛奈は素早く打ち込む。
『奈々、頼みがある。仲介できる人を探して。「受ける代役に心当たりがある」って言って、私が前に奈々にあげた絵をサンプルで送って。で、値段は倍だって伝えて』
