第5章
「倍額? 1枚100万ドル?!」竹内奈々は、黒宮司奈の代役を引き受けると決めたことなど吹き飛ぶほど、その値段に舌を巻いた。
間髪入れずに、驚嘆符をずらりと送る。
「さすがに、あっちが頭おかしくなきゃ飲まないでしょ?」
「飲まなくても飲むしかない」凛奈は淡々と計算するように言った。「7月の個展、チケットもう売っちゃってる。絵が出せなかったら、評判が完全に死ぬ」
「評判守るためなら、数百万ドルなんて端金じゃん」
「凛奈、えげつな!」竹内奈々は親指を立てたスタンプを送ってから、すぐに続けた。「でもさ、そのレベル描ける人なんて、指折り数えても数人でしょ? 司奈が『誰が描いたの?』って聞いてきたら、どうすんの?」
「まさか、あなたとは言えないでしょ」
「当たり前じゃん」凛奈は言い切る。「私の同級生とか、同じ先生に習ったとか、適当に。黒宮司奈の目じゃ見抜けない」
「了解、今すぐ動く! でもさ、ほんとに分かんない。凛奈って何がしたいの?」竹内奈々は堪えきれずに打った。「あいつが恥かくの見てる方が楽しいのに。これじゃ助け舟出してるみたいじゃん」
助け舟?
凛奈は笑った。
そんな善人のふりをする気なんてない。奪われたものは、全部取り返すだけだ。
段取りを整えると、凛奈はスマホをしまい、タクシーで自分のマンションへ戻った。
部屋に入るなりパソコンを開き、久しく触っていなかったアカウントにログインする。
名前はレイナ。
孤児院にいた頃、まだ絵を描き始めたばかりの時に作ったものだ。先生もいなかったから、ネットの講座を見よう見まねで練習し、描き終えた作品を撮って投稿した。すると、少しずつファンが付いた。彼女が育っていくのを、最初から見守ってくれた人たち。
頻繁に更新するわけでも、積極的に運営するわけでもなかったから、フォロワーは多くない。
それでも——黒宮家に引き取られ、黒宮司奈の代役をさせられるようになってからは、一度もログインしていない。
三年。更新は途絶えたまま。
それでも待っている人は、まだいるのだろうか。
いちばん新しい投稿のコメント欄。直近の書き込みは三週間前だった。
「レイナさん、まだ描いてますか? ずっと更新なくて寂しいです!」
そこから下へスクロールすると、並ぶのは心配と応援の言葉ばかりで、凛奈は知らず目元が熱くなった。
この世界には、彼女を本気で好きでいてくれる人がいる。
見ず知らずの誰かは、彼女の才能を喜び、体調を気遣ってくれるのに。いちばん近いはずの人間は、押さえつけ、否定し、日の当たらない代役に押し込めるだけだった。
凛奈は目尻を拭い、新しい投稿を打ち込む。
「戻ってきました」
添えた画像は、最近描いたラフの一部だけ。ほんの断片だ。
もう人なんてほとんど残っていないだろう——そう思っていたのに、投稿から十分もしないうちに、コメント欄が爆発した。
「復帰?!」
「相変わらず繊細……しかも、ちゃんとレイナさんの色」
「おかえり!」
それを眺めていると、凛奈の口元は勝手にほどけた。胸がきゅっとして、でも高鳴って、泣きたくなるほど嬉しい。
通知音が止まらない。DMを開けば、ほとんどが挨拶と歓迎の言葉だった。
その中に、指が止まる一通が混じっていた。
送り主のIDは、れいじ。アイコンは海。
文面は短い。
「久しぶり。おかえり」
凛奈は、そのIDをじっと見つめた。
知っている。
三年前、彼女がまだ活発に投稿していた頃、このれいじはよくコメントをくれた。絵の読み取り方が鋭くて、彼女が画面の奥に隠した感情まで、すっと掬い上げるように当てる。
雨の夜の街景を描いた時もそうだ。周りは「暗い」「息が詰まる」と言った。
けれど彼だけが、こう残した。
「最近、気分いいでしょ。何か嬉しいことでもあった?」
凛奈は、あの時本当に息を呑んだ。
当たっていた。あれを描いた日はちょうど彼女の誕生日で、橋本美子がネックレスを用意してくれていたのだ。
その場で泣いてしまうほど嬉しかった。あとになって、それが宝飾店の上客向けのノベルティで、しかも黒宮司奈が要らないと投げたものだと知っても——その数日間だけは確かに幸せだった。
読心術でも使えるのか、と本気で疑ったほどだ。
試すようにやり取りもしたが、彼は彼女の生活事情を何ひとつ知らなかった。身近な知り合いでもない。
なら、答えは一つ。彼は分かってしまうのだ。筆の運びから、塗り重ねから、彼女の胸の内を。
何度かDMで話した。会ったこともないのに、ずっと前から知っている友達みたいに、会話がするりと馴染んだ。
それが、代役を強いられた日を境に、凛奈はこのアカウントを閉じ、連絡も途絶えた。
なのに——覚えていてくれた。
凛奈はDMを開き、数秒だけ迷ってから打ち返す。
「久しぶり。まだ私のこと覚えてたの?」
送信した瞬間、返事が来た。
「もちろん。ずっと待ってたんだよ。こんなに音沙汰ないから心配して、何かあったのかと思って。警察にも連絡した。『無事です』って聞いて、やっと安心したんだ」
心臓が、理由もなく少し速く跳ねた。
三年前、突然警察に話を聞かれたことがあった。あれは——誰かが、彼女を案じてくれていたから。
気にかけられているという感覚。それは凛奈が、どうしても抗えない甘さだった。
画面を見つめたまま、返す言葉が出ない。
すると、相手はさらに続けた。
「新作、すごくいい。なんか生まれ変わったみたい。生活に変化あったでしょ。言っていいなら、おめでとうって言いたい」
凛奈は今度こそ目を丸くした。
「部分しか載せてないのに。それで分かるの?」
「やっぱり当たった」
少し間を置いて、また一通。
「そうだ。絵にKのマークが増えてるけど、意味あるの?」
画面越しに、凛奈は小さく笑う。
「意味なんてないよ。サインみたいなもの」
「これからは、ずっとこの署名でいく」
それが——生まれ変わった彼女が、黒宮司奈に贈る大きな贈り物。
受け取れるといいね。
