第1章
「白石様、こちらのご病気は極めて稀です。このまま治療を受けなければ、命に関わる恐れがあります」
病室で医師は、カルマン症候群と確定した診断書を白石紬に差し出した。
「申し訳ありません。当院では医療体制に限界があります。スイスのほうに関連する治療法があると聞いています。ご家族とご相談の上、できるだけ早くご決断ください」
紬は分厚い診断書の束を受け取る。指先が震えた。
長いこと迷った末、ようやく夫――一ノ瀬蓮へ電話をかける。
何度鳴らしても出ない。諦めかけたそのとき、ふいに通話がつながった。向こうは騒がしい。
「何か用?」
蓮の声は苛立ち気味だった。
紬が口を開こうとした瞬間、受話器越しに甘くか細い女の声が割り込む。
「蓮、あなたのガウン、着てもいい?」
胸がきゅっと締めつけられた。――また、女?
「いいよ」
蓮はそう答えると、電話のこちらへ向けて淡々と言った。
「今忙しい。切る」
ぷつり。通話は一方的に終わった。
蓮には潔癖がある。人に自分の物を触らせない。
それなのにガウンを着せるなんて、相手はただの「他人」ではないのだろう。
紬は携帯を握ったまま、しばらく呆然としていた。
ただ、ひどく疲れた。
こんなことは、三年間の結婚生活で一度や二度ではなかった。
彼女と蓮は政略結婚だ。祖父から相手が蓮だと聞いたとき、紬はしばらく浮かれていた。
ずっと密かに想い続けてきた相手。結婚できるなんて、夢にも思わなかったから。
けれど嫁いでみれば、そこは幸せの終点ではなく、悪夢の始まりだった。
結婚して三年。蓮は終始、冷たくも優しくもない距離のまま。外の女との噂ばかりが絶えない。
上流階級の連中は陰で嘲笑った。――名ばかりの一ノ瀬夫人。
蓮は噂を隠そうともしない。むしろ紬に知らせることすら躊躇しなかった。
問い詰めるたび、彼は冷たい視線を投げ、唇に嘲りを浮かべる。
「俺たちはただの政略結婚だ。お前、口出しが過ぎる」
最初は苦しくてたまらなかった。
やがて、感覚が鈍っていく。
彼はわざと――彼女を上流の輪の中で笑いものにするために、そうしているのだと気づいてからは。
紬は魂が抜けたように家へ戻った。
玄関を入るなり、リビングのソファに座る姑――一ノ瀬由美子が目に入る。顔色は暗く、苛立ちが滲んでいた。
「よく帰ってこられたわね?」
由美子は数枚の写真をテーブルへ叩きつけた。
「見なさいよ、あなたのやったこと! 自分の夫も繋ぎ止められないくせに一ノ瀬夫人が務まると思って? 役立たず!」
紬が写真に目を落とす。
蓮と若い女が、プライベートクルーザーのデッキで寄り添い合うツーショット。
女が身にまとっているのは――蓮がよく着ている、濃いグレーのシルクのガウン。パパラッチに撮られていた。
由美子は冷たく言い放つ。
「方法は何でもいい。今すぐこのニュースを揉み消しなさい! 蓮はもうすぐ重要な海外M&A案件を取り仕切るの。株価にもイメージにも、傷ひとつ付けられないわ!」
紬は俯き、小さく答える。
「……わかりました、お義母さま」
蓮が噂を起こすたび、姑は息子を叱らない。責められるのはいつも紬で、尻拭いも彼女の役目だった。
「本当に理解できないわ。どうしてあのキヨお義母様が、あなたを孫嫁にしたがったのか。何の取り柄もないのに」
由美子は吐き捨てるように呟き、立ち上がって去っていった。
紬は写真を拾い上げ、改めて確かめる。
そこに写る女の顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。
――川口雪乃。
蓮の初恋の相手。
帰国したの?
紬はすぐにコメント欄を開いた。祝福ばかりが並ぶ。
「川口さんと一ノ瀬さん、絵になるカップル! 学生時代から付き合ってたって聞くし、一ノ瀬さんが彼女のためにクルーザー丸ごと貸し切ったとか最高」
「結婚してるなんて信じないなあ。あれだけ川口さんを愛してるのに、他の女を娶るわけない」
紬が蓮に嫁いでから、彼は公の場で妻の存在をほとんど明かさなかった。
まるで――彼の世界に、彼女の居場所などないかのように。
だからメディアも「一ノ瀬蓮は独身」だと信じ込んでいた。雪乃を待ち続けているのだ、と。
芸能ニュースは大々的に煽り立てる。
一ノ瀬グループ社長、初恋とクルーザー密会。復縁か――。
写真の雪乃は花のように笑い、蓮に寄り添う。
蓮は甘い眼差しで見つめ返し、腰を抱く手まで優しい。
――こんな顔、紬は一度も見たことがなかった。
冷淡な人なのではない。
優しさを注ぐ相手が、最初から決まっていただけ。
紬の心は、ゆっくり沈んでいった。
雪乃の存在を知ったのは結婚してからだ。
当時、祖母のキヨが交際に反対し、雪乃は勢いで海外へ。蓮はそれを紬のせいだと思い込み、いつも不機嫌だった。
これまでのゴシップは場を飾るだけの遊びだと、紬にもわかった。
だが雪乃は違う。今回ばかりは――本気だ。
夜更け、ようやく蓮が帰宅した。
リビングの灯りがついているのを見て、彼は眉をひそめる。
「まだ寝てないのか」
紬はテーブルの写真を押しやった。
「お義母さまが処理しろって」
蓮は写真を一瞥し、眉間の皺を深くする。
「名ばかりの一ノ瀬夫人として、やることだけやれ。余計なことに首を突っ込むな」
紬は静かに見上げた。
「……今回は、本気なの?」
「お前には関係ない」
蓮は冷たく返すと、コートを脱いで浴室へ向かった。
紬は小さく首を振り、いつものように彼の上着を拾い上げる。クリーニングに出すためだ。
三年間、彼女は忠実な家政婦のように蓮を世話してきた。感謝など一度もない。むしろ、一ノ瀬夫人になるためなら何でもする女だと嘲られてきた。
もう、疲れた。
悲しみも痛みも、麻痺していく。
ふと、視線が襟元で止まる。
口紅の跡。――相手は、考えるまでもない。雪乃だ。
写真の密着した姿が脳裏に蘇り、紬の目の縁が一気に熱くなった。
そのとき、携帯が鳴る。病院からだった。
「白石様、スイスの病院に連絡が取れました。教授がレポートを確認し、受け入れを承諾しています。ただ、スケジュールが非常に厳しくて……これが直近で最後のチャンスになります。なるべく早くご検討を……」
紬は蓮の襟の口紅を見つめたまま、顔を上げた。
「……迷いません。行きます」
