第2章

翌日、紬はパスポートの申請に向かった。

「受け取りは最短でも一か月後になります」

窓口の職員が事務的に告げる。

「……はい」

紬は小さく頷いた。

一か月あれば十分だ。蓮と離婚するには。

役所を出ると、紬は携帯を取り出して電話をかけた。

「中村弁護士ですか。離婚の件でご相談したくて」

事情を聞いた相手は数秒沈黙し、言った。

「白石さん、今の状況ですと、離婚しても一ノ瀬家の財産分与はかなり厳しいと思われます」

「構いません。何も要りません。とにかく早く離婚したいんです」

紬は淡々と答えた。

電話を切ってほどなく、中村弁護士から離婚協議書の草案が送られてくる。

画面の文面を見つめながら、紬はすべてがひどく皮肉に思えた。

三年前、嬉しくてたまらず蓮に嫁いだ。人生の中心は彼だった。

こんな形で結婚生活が終わるなんて、想像もしなかった。

この数年、愛情を得られなかったばかりか、尊厳も、健康も失ってしまった。

カルマン症候群の治療はリスクが高く、少しのミスで命を落とすこともあると聞く。

死を前にして、紬は不思議と落ち着いていた。

もし本当に帰って来られないのなら――せめてこの一か月、自分のために生きたい。

タクシーを拾い、城東エリアへ向かう。

今日は藤城峥の誕生日だった。

幼いころから一緒に育ち、実の兄のように慕ってきた人。

いじめられれば、峥は真っ先に前に立って庇ってくれた。

両親に叱られるたび、彼に愚痴を聞いてもらった。

彼女が蓮に嫁いだときも、峥は一度だけ会いに来ている。

「紬も大きくなったな。……選んだ道、後悔するなよ」

頭を撫でる手は優しかったのに、その笑みの奥には、当時はわからない感情が滲んでいた。

それから、峥とは一度も会っていない。

今思えば、あのときの峥は――今日の結末を予感していたのだろうか。

道中、紬は峥の好きな白いチューリップを選び、ケーキも買った。

甘いのが苦手なのを覚えていて、わざわざ抹茶味にした。

彼女はメッセージを送る。

「峥、家にいる? 会いに行ってもいい?」

返事はない。

紬は少し迷ったが、それでも行くことにした。

これが本当に、最後になるかもしれないから。

峥のマンションは都心の高級住宅街にある。

紬はケーキと花束を提げ、懐かしい扉の前で呼び鈴を押した。

かなり待たされて、ようやく扉が開く。

――出てきたのは峥ではなく、姉の白石雅だった。

雅は大きめの男物シャツを一枚で着ており、太腿の途中までしか隠れていない。すらりとした長い脚がむき出しだ。

紬を見るなり、顔に驚きを走らせ、すぐに不機嫌そうな声を出した。

「……なんであんた?」

雅は昔から紬が気に入らない。どうして良いものはすべて妹に与えられるのか、許せなかったのだ。

両親が亡くなってからは、完全に疎遠になっている。

雅はドア枠にもたれかかり、中へ入れる気などさらさらない。

紬はそのシャツが峥のものに見えて、眉を寄せた。

「峥の誕生日のお祝いに来たの。……いる?」

「峥ならシャワー中」

雅は浴室のほうへ視線を投げ、挑発するように言う。

「さっき運動して汗かいたのよ。妹ちゃん、来るタイミング悪すぎ」

胸の奥が震えた。――二人は、そういう関係?

「いつから……」

言葉がうまく続かない。

「三か月前から」

雅は得意げに笑う。

「峥、言ってなかった? まあ、言う必要ないって思ったのかもね。だってあんた、今や一ノ瀬夫人だもん。私たちみたいなちっぽけな人間のこと気にする暇ある?」

花束を抱える手が震え、指の節が白くなる。

そのとき、浴室から峥が出てきた。

腰にバスタオルを巻いただけ。髪から水滴が落ちている。紬を見た瞬間、明らかに固まった。

「紬?」

向けられた冷えた視線に、心が凍りつく。

「……何しに来た」

「わたし……」

紬は戸惑い、掠れた声で言った。

「今日、誕生日でしょ。お祝いに来たの」

花束とケーキを差し出すが、峥は受け取らない。

雅が鼻で笑う。

「ほんっと上手に演じるね。名門に嫁いだくせに、別の男を誘惑しに来たわけ? 蓮じゃ満足できないの?」

峥は何も言わない。雅の言葉を黙認しているようだった。

紬は峥を見つめる。幼い頃、いつも守ってくれた兄。今は別人みたいに遠い。

ずっと昔の言葉を思い出す。

『紬、何があっても俺はお前の味方だ』

約束は、破られるためにあるのだろうか。

「峥、お誕生日おめでとう」

紬は花束とケーキを玄関先に置き、俯いた。声が細く震える。

「二人が付き合ってるって知らなかった。ごめん、邪魔したね」

背を向けたところで、峥に呼び止められる。

「紬」

足を止めても、振り返れない。

「……もう、用がないなら来るな」

峥の低い声が、刃物のように心に突き刺さった。

紬は答えず、足早にエレベーターへ向かった。

扉が閉まる直前、雅の甘ったるい声が耳に届く。

「峥、これ花とケーキどうする? あたし、あの子の物なんて置きたくない」

「捨てろ」

峥の声は淡々としていた。

限界だった。紬はエレベーターの壁にもたれ、涙が決壊する。

――紬が去った後。

峥は雅を一瞥し、眉をひそめた。

「前から言ってるだろ。俺の服、勝手に着るな」

「好きなんだもん」

雅は腕を上げて首に絡みつき、艶のある声で囁く。

「峥、あたし何年も追いかけてるのに。いつになったら付き合ってくれるの?」

峥は腕を外し、エレベーターのほうを深く見つめた。

「悪い。お前は友達としか見てない」

峥の家を出ると、紬の腹痛がまたぶり返した。

鞄から鎮痛薬を取り出し、乾いた喉で飲み込む。力が抜け、泣く余裕すらない。

この世界には、本当に誰も――自分を気にかけてくれる人はいない。

峥さえも。

そのとき、由美子からメッセージが届く。

【頼んだ件、片付けたの?】

紬は弱々しく携帯を置いた。疲労が骨の奥まで染みる。

向き合わなければならない。今はまだ、蓮の妻なのだから。

体調の悪さを堪え、一ノ瀬グループのビルに着いた頃には夜になっていた。

「奥様?」

小林秘書が驚いた顔をする。

「どうされたんですか」

「蓮に会いに来たの」

紬は青白い顔で言う。

「ですが……」

小林秘書は言い淀む。

「川口さんもいらっしゃいます。一ノ瀬社長から、重要な用件でなければ邪魔をするなと……」

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