第4章
蓮の瞳が暗く沈んだ。無意識に携帯を握る手に力がこもる。やがて口元に冷笑を浮かべると、携帯を乱暴に脇へ放り投げた。
雪乃は気遣うように声をかける。
「会社のことなら、先に戻ってもいいよ? 私なら大丈夫だから」
蓮は顔も上げず、胸の奥に湧き上がった得体の知れない苛立ちを押し殺した。
「大した用じゃない。続けるぞ」
そうは言っても、雪乃は見てしまっていた。先ほど一瞬だけ画面に映った――紬の名前を。俯いた瞬間、その瞳の奥に鋭い光が走る。
レストランを出ると、蓮は彼女を送り届けた。だが雪乃は、このまま別れたくない。
「蓮、この二日間のこと……本当に大丈夫? 白石さんのほう、必要なら私が……」
言い終える前に、案の定、蓮の目に露骨な苛立ちが浮かんだ。
「それはあいつの仕事だ」
不機嫌を悟り、雪乃はそっと彼の背に手を当てる。
「怒らないで。ただ、今日の白石さん、顔色が悪かったから……説明しなくていいのかなって」
蓮は眉を寄せた。今日に限って、なぜそこまで気にするのか理解できない。
「……自業自得だ」
そう言った途端、何かを思い出したのか、彼の纏う空気が一気に冷えた。
それ以上、雪乃は追及せず、腕を離して名残惜しそうに背を向ける。
雪乃の後ろ姿を見送ってから、蓮は車を走らせ家へ向かった。
だが屋敷の前に停めたとき、家の中が真っ暗なのに気づき、彼は思わず足を止める。
鍵を開けて入る。部屋はいつもと同じ――なのに、何かが欠けている。
灯りも点けず、蓮は大股で寝室へ向かい、扉を開けた。ベッドに、いつもの影はない。眉がさらに険しくなる。
夜は更け、雲の切れ間から月が顔を覗かせ、静かに大地を見下ろしている。
病室のベッドで眠る紬は、夢の中でも眉を寄せ、落ち着かない寝息を立てていた。
そこへ携帯の着信音が鳴り響く。静寂の中でやけに耳障りだ。睫毛が揺れ、彼女は目を開けた。
画面には見知らぬ番号。眉間を指で押さえ、通話を取る。
「……もしもし」
「どこにいる」
聞き慣れた声に、紬は息を呑んだ。蓮が電話してくるとは思わなかった。
返事がないのが気に入らないのか、蓮の語気が荒くなる。
「立場を忘れるな。この時間なら一ノ瀬の家にいるべきだろ」
紬は、見知らぬ番号をもう一度見て、妙に肩の力が抜けた。
「蓮」
名を呼ばれ、蓮は眉をさらに寄せる。何がしたいのかわからない。
「離婚しましょう」
紬の声は驚くほど軽かった。胸が切り裂かれそうでも、彼に悟られたくない。
蓮は一瞬言葉を失い、すぐ苛立ちを滲ませる。
「紬。雪乃と俺が何回かニュースになっただけだろ。その程度も処理できないで、離婚で脅す気か?」
返事を待たずに続ける。
「それはお前の仕事だ、一ノ瀬の奥様」
最後には怒気すら混じった。
「今のは聞かなかったことにしてやる。明日までに元通りにしろ。大目に見てやる」
そして冷たく言い捨てる。
「二度とするな」
通話が切れ、耳に残ったのは無機質なツーという音。紬は口元に自嘲の笑みを浮かべた。
蓮は、彼女の気持ちなど一度も気にかけない。余計な心配のひと言もない。
彼女が病院にいると知っていても、気にするのは一ノ瀬家の体面だけ。
三年の献身は、呼べば来る、払えば消える――そんな使用人扱いで返ってきた。
紬はそっと目を閉じる。頬を伝った涙が一粒、静かに落ち、唇から微かなため息が漏れた。
再び眠りに落ちても、すぐ痛みで目が覚める。身体が疼き、身を丸めて朝を待つしかない。
窓辺に最初の光が差し込む頃、ようやく少し楽になった。
また着信。昨夜の警告が脳裏をよぎり、顔をしかめかける。
だが表示された名前を見て、ほっと息をついた。
「恬子……!」
通話を取るなり、三浦恬子の明るい笑い声が飛び込んでくる。
「紬、当ててみて。私今どこにいると思う?」
久しぶりの声に、紬の目にようやく笑みが灯る。
「まさか……空港?」
「大正解! さすがうちの紬。着いた瞬間に電話したんだよ、どう? 義理堅いでしょ」
紬は笑って返事をした。
「それで、今どこ? 会いに行く。お土産も――」
言いかけて、紬の笑みが僅かに引っ込む。どう説明すればいいのか。
「……ん? どうしたの」
返事がないので、恬子はすぐ異変を察した。
隠せない。紬はため息をつく。
「……病院」
「はぁ!?」
耳をつんざくような大声に、紬はあらかじめ携帯を少し離していた。
「どこの病院! 今すぐ行く!」
病院名を言うと、電話はぶつりと切れた。
それから三十分もしないうちに、恬子はタクシーから飛び降りる勢いで現れた。病院の外に立つ、憔悴した紬を見た瞬間、怒りは痛みに変わる。
「なんで病院にいるのよ」
心配の声音に、紬は無理に元気を作る。
「大丈夫。ちょっと風邪で薬買いに来ただけ」
そう言って袋を振って見せたが、恬子が眉をひそめたので、慌てて背に隠す。
「ほんとに?」
疑いの目。
紬は力強く頷き、追及を止めさせた。
二人は喫茶店に入り、恬子は近況を聞いた後、眉を吊り上げて言う。
「だから言ったのに。あんた、蓮なんかと結婚するべきじゃなかった!」
吐き出したぶん、胸の重石が少し軽くなった気がして、紬は苦笑した。
「うん。だから離婚する」
恬子の目に笑みが浮かぶ。本気で喜んでいるのがわかる。
「その石頭がやっと目ぇ覚ました!」
そう言って鞄から一枚の招待状を取り出した。
「元々あんたのために用意してたの。今こそ出番」
紬が断ろうとした瞬間、恬子が先回りする。
「離婚するんでしょ? 気晴らしよ。それとも、口だけで本当は蓮が忘れられない?」
恬子の押しに、紬は招待状を見つめ、黙り込んだ。
