第7章
雅は内心でほくそ笑み、ドアの外で峥が出てくるのを待つつもりだったが、しばらく立ち尽くしても男の姿は一向に現れなかった。
思わず眉をひそめて中を覗き込むと、峥がまだ部屋に残っていることに気づいた。
峥は一度は立ち去ろうとしたものの、ドアの傍で少し立ち止まり、やがて振り返って大股で紬の前に歩み寄った。
「あいつのために、尊厳まで捨てる気か」
峥はいつの間にか拳を握り締めていた。深い瞳の奥が激しく揺れている。彼はうつむいている彼女を、長いこと見下ろした。
紬は喉が詰まり、目の縁が熱い。落ちる涙を必死に堪えた。峥の前で、こんなにみっともなくなりたくない。
蓮に嫁ぐと決めたのは自分だ。今の苦しみも、すべて自業自得にすぎない。
雪乃が戻ってきた今、外から見ればあの二人こそがお似合いの恋人同士だ。名ばかりの一ノ瀬奥様など、誰の目にも留まらない。
だからうつむいたまま、峥の目を見られない。
言葉の一つ一つが刃のように胸へ刺さり、ソファに手をついて睫毛を震わせるしかなかった。
恬子は空気が妙に張り詰めたのを察し、唇を噛む。半拍置いて、紬の耳元へ小声で囁いた。
「……わたし、隅に行ってるね。二人でちゃんと話しなよ」
恬子は邪魔になりたくなかった。峥が紬を心配しているのもわかる。ただ、その心配が言葉になると棘になるだけで。
紬は眉を寄せ、答えない。
話すことなんてない。それに峥は、雅と付き合っているのだ。
どう言い繕おうと、彼は雅の恋人。どんなに言い訳しても、もう昔のようには戻れない。
距離を取るべきだ。
峥は黙り込む紬に、理由のわからない不機嫌が込み上げる。彼女が蓮に嫁いだとき、祝福した。だが、胸の奥に残ったものもある。
そして今、彼女が不幸そうだと――なおさら苦しい。
掌で大事にしてきた女が、踏みにじられているのに、立ち上がれない。
「私のこと、放っておいて」
長い沈黙の末、紬は顔を背け、淡々と吐き出した。
涙が滲んでいる。声にも泣きが混じる。それでも峥には見られたくなかった。
峥は紬の目が赤くなり、声に泣きが混じっているのを鋭く察知した。その瞬間、胸に名もない怒りが燃え上がった。
連れ出してしまいたい。
だが、自分は何の立場で?
彼女はまだ蓮の妻で、自分はただの――昔の近所の兄にすぎない。
「顔色が悪い。病院に行け。ほかに痛いところは?」
峥は話題を変えるように言い、伸ばした手が宙で止まる。平気なふりをしたいのに、身体が勝手に心配してしまう。
紬は小さく首を振った。
「……大丈夫。本当に平気だから。帰って」
「……わかった。紬、お前は本当に情けない!」
峥はしばらく動けず、やがて怒りに任せて扉を叩きつけるように出ていった。
バン、という大きな音。紬はそこでようやく力が抜け、涙がぽろりと落ちた。
隅にいた恬子は眉を寄せた。
すぐそばへ行って座り、手を握る。
「なんでちゃんと説明しないの?」
「……言うことなんてない」
紬は無理に笑った。
どうせもうすぐここを離れる。峥にどう思われてもいい。自分は確かに情けない。ここまでされても、最後に体面だけは保とうとするのだから。
「全部、蓮が悪い。どうしてあんなことできるの」
恬子は眉を吊り上げ、悔しそうに言う。
三年も隣にいたのに、それで一つも気遣わないなんて。
雪乃が戻った途端、妻を放り出して遊び回り、ネットの騒ぎも放置。紬がどれほど笑いものにされようと、気にもしない。
「完全にあんたをネタにしてる。ムカつく。だから言ったのに、嫁ぐべきじゃなかったって」
恬子は長く息を吐く。けれど、たとえやり直しても、紬は同じ場所で転ぶのだろう。
「……私も、わかんない」
紬は自嘲気味に笑った。
蓮の心に最初から愛する人がいたと知っていれば、結婚など選ばなかった。
愛されないより、嫌われることが怖かった。
三年の冷たさがどれほど苦しかったか――自分だけが知っている。
もう蓮が自分を愛しているかどうかなんて、どうでもいい。
ただ、離してほしい。それだけ。
「もういいの、恬子。私にとって大事じゃない。離婚するし、もう彼のことで傷つかない」
紬は恬子の手を握り返し、穏やかに言った。
恬子はまだ心配そうだったが、黙って頷く。
「……わかった。じゃ、もう言わない。離婚したら美味しいもの食べて、イケメンもいっぱい見る! 男なんて山ほどいるんだから、蓮だけじゃない!」
恬子の電話が鳴った。友人かららしい。
「紬、ちょっと呼ばれた。ひとりで大丈夫? あとで終わったら送るから」
「うん、大丈夫。行って」
紬は頷いた。恬子が去り、紬は鞄から携帯を取り出す。ちょうど担当医から治療方針が届いていた。
開く前に、さらにLINEの音声メッセージが来る。
「白石さん。大まかな治療スケジュールはメールに送っています。手術は1か月後。その後は回復期間が必要で、化学療法も行います」
医師の声は重い。
「化学療法は辛いです。合併症として、五感の喪失、脱毛など――予測しづらい症状が出る可能性があります」
そして最後に、付け足すように言った。
「記憶障害が出る可能性もあります。それでも受けられますか?」
紬は眉を寄せた。ここまで深刻だとは思っていなかった。
メールを開き、治療工程を読み進めるほど、胸の底が冷えていく。
手術に失敗したら――死ぬのだろうか。
掌に汗が滲む。そのとき、扉が開く音がした。
蓮が冷えた表情のまま数歩で入り、紬の傍まで来る。彼女が携帯でメールを見ているのを見て、蓮は覗き込んだ。
「……療程」
その二文字が目に入った瞬間、紬は気づいて素早く携帯を引っ込める。
「何を見てる」
