第2章
顔は上げず、手元の書類に視線を落としたまま言った。
「用件があるなら、手短に」
「えっとね、柚希」彼女は少し身を乗り出し、媚びるようでいて当然と言わんばかりの口調になった。
「実はみんな、裏では不満が出てるの。あなたがこういう残業インセンティブをやるせいで、休みの日まで落ち着かないって」
「それで、若手で話し合ったんだけど……会社にその予算があるなら、三倍賃金と五十万円のボーナス分をまとめてさ、お盆の手当として全社員に均等配分したらどうかな?」
思わず顔を上げ、怪物でも見るように彼女を見た。
彼女が欲しいのは公平じゃない。残業反対でもない。
誰かが命を削って稼いだ金を、手間なく自分の小遣いに変えたいだけだ。
「平原」椅子の背にもたれ、声を氷みたいに落とす。
「私から、うまい汁だけ吸うつもり?」
「小野さん、ひどい言い方ですね。私たちは会社のチームの結束のために言ってるんですよ! みんながお金をもらえたら、会社のこともっと好きになるじゃないですか!」まだ言い逃れを重ねる。
「出ていって」ドアを指さした。
「 小野さん……」
「出ていけって言ったでしょ!」
平原はぎろりと私を睨みつけ、ドンッとドアを叩きつけるように出ていった。
ブラインド越しに見えたのは、席へ戻るなりスマホを抱え、指を猛スピードで走らせる姿。口元には、冷たい笑み。
夜八時。私はまだオフィスで、プロジェクトのデータを照合していた。
スマホが狂ったように震える。アシスタントの早坂からだ。
「小野さん! 大変です! Twitterのトレンド見てください!」早坂の声は切羽詰まっていた。
私はパソコンを開く。
トレンド十五位。目に刺さる文字が並んでいた。
#StarPointMedia金で命を買う
#悪徳女CEOが社員に連休出勤を強要#
開くと、二千字ほどの告発文。投稿者は、作りたての匿名アカウントだった。
やけに扇動的な文面。
「『人に優しい』をうたうメディア企業であるにもかかわらず、私たちの女CEOはお盆の直前、最も悪辣な資本家の手を繰り出した」
「『三倍賃金』と『五十万円のボーナス』を餌にし、全社員に休日出勤を迫っている」
「来なければ『努力しない人間』の烙印。休み明けには評価を落とされ、干され、最悪リストラだ」
「私たちは人間だ。機械じゃない。金で命を釣る職場の精神的圧力は、いつになったら終わる?」
本文の下には、社内チャットのスクショが一枚。分厚いモザイクがかけられているのに、ひと目で分かった。うちの内部チャンネルだ。
コメント欄は、すでに地獄みたいになっていた。
「何このクソ会社? お盆九日もあって出勤強要とか頭おかしい」
「CEOは全員キャンセルされろ。金で殴って内巻き強要するタイプが一番キモい」
「StarPoint Media不買! 関わってる案件全部ボイコット!」
「この女CEOの身元晒せ。ネットリンチの味、教えてやれ」
私は画面を睨みつけた。
考えるまでもない。誰の仕業か。
平原だ。
会議で口にした「金で命を買う」論、そのまんまだ。
私は鼻で笑い、社内の全体チャンネルを開いた。
中は今、祭りの真っ最中だった。
平原がため息のスタンプを投げている。
「はぁ……今のSNSって本当に怖いね。何でもすぐトレンド入り。小野さん、今ごろ頭抱えてるんじゃない?」
そして、想像もしなかった返信が続く。
村木――会議で真っ先に手を挙げ、目を赤くして「残業代で住宅ローンを返したい」と言っていた、シングルマザーの村木。
その村木が、平原に同調した。
「ですよね……平原さんの言うことも分かります。やっぱり健康が一番大事ですし。このお金、正直、稼ぐほど不安になります」
さらに、普段はやたら私の顔色をうかがう佐々木まで。
「今回の小野さんは、たしかにちょっと攻めすぎたかもです。やるって言ってもやらないって言っても気まずいし、家じゃ嫁とケンカになりました」
画面上で流れ続けるログを眺めながら、足元から寒気が背骨を這い上がってきた。
村木。去年、息子が入院して手術費が出せなかった。私は個人的に二万ドルを貸した。いまだ完済していない。
佐々木。学歴が足りず他社では面接すら通らない。真面目さを買って、例外的に採用した。企画の作り方も、一から手取り足取り教えた。
なのに彼らは、私が用意した最高水準の福利厚生を当然のように享受しながら。
「政治的に正しい側」に寄り添いたいだけで、孤立したくないだけで、チャンネルの中で私の背中を刺し、汚水を浴びせている。
しかも、あの匿名投稿のコメント欄には、見覚えのあるIPまで混じっていた。
「内部社員だけど、言ってることは全部本当。あの女社長、普段から支配欲の塊だよ」
「そうそう! 残業しないとブラックリスト入り!」
