第3章
恩をあだで返す——そんな茶番が、うちの会社ではこれ以上ないほど鮮やかに上演されていた。
扉が勢いよく開き、早坂が汗だくで駆け込んでくる。
「小野さん、いまどうします? 取引先から電話が鳴りっぱなしです! ネットも炎上して、公式アカウントが袋叩きで……このままだと会社の評判、終わります!」
早坂は縋るような目でこちらを見た。
「いっそ……声明を出して、謝って、残業は中止にしませんか?」
謝る?
あの、底なしに貪欲な恩知らずどもに?
窓の外の夜景を眺めながら、私は目を冷たく細めた。
会社を立ち上げてからずっと、自分を家長のように思い込んでいた。守って、できる限り良い待遇を与えて、事情も汲んでやろうとしてきた。
——間違いだった。
職場は涙を信じない。情に訴える脅しも信じない。
本物の優しさには、牙がいる。
今日から私は、小野柚希。商人として生きる。
「早坂」
パソコンの画面を落とし、椅子から立ち上がる。自分でもぞっとするほど静かな声だった。
スマホを手に取り、ビル管理会社へ電話を入れる。
「通達を出して」
早坂を見据え、一語ずつ噛んで言った。
「全社員に、ね」
翌日、午前九時。
お盆休み前、最後の出社日。
社内には、妙にねっとりした空気が漂っていた。
平原はデスクにふんぞり返り、隣の同僚に小声で自慢する。
「見た? これが世論の力ってやつよ。普段あれだけ偉そうにしてても、叩かれたら黙るしかないの」
「今日こそ頭下げるに決まってる。炎上を収めるために、あの予算、みんなに配るかもよ?」
少し離れた席の村木は視線を泳がせていたが、「予算を配る」という言葉を聞いた瞬間、目の奥にいやしい光が走った。
そのとき、全員のスマホに同時に一件の一斉通知が届く。
直後、私は会議室の扉を押し開け、足早に入った。
「全員、手を止めて。今すぐ会議室に集合」
声は大きくない。なのに、逆らわせない圧だけがずしりと落ちた。
二分後、社員たちが会議室の席を埋める。
平原は最前列で顎を上げ、勝ち戦の将軍気取りだ。
私は前に立ち、両手を机に突き、ひとりずつを淡々と見渡した。
「昨夜のトレンド、全部見ました」
私が口を開いた途端、呼吸の音まで小さくなる。
「この数日、ネットでの批判や、私の仕事の進め方への非難について……深く反省しました」
わざと語速を落とす。声色に、かすかな『後ろめたさ』すら混ぜて。
「平原の言うとおりです。健康が一番大事。私は経営者として、プロジェクトの進捗ばかり追って、皆さんの心身の健康を軽んじていました」
その言葉に、平原の目がぱっと輝く。若い社員たちと、勝利の視線を交わした。
村木も肩の力を抜き、期待に満ちた笑みを浮かべる。
「認めます。私が以前提示した高額な残業手当は、知らず知らずのうちに皆さんへ休暇の不安を植えつけていました。形を変えた圧力——いわゆる職場の追い込みです」
私は平原に視線を置いたまま、小さく頷く。
「ここに、謝罪します」
会議室がざわめいた。
あの決断の早い小野柚希が、本当に頭を下げた——誰もがそう思った。
平原は咳払いをして、得意げに声を張る。
「小野さん、間違いを認められたなら結構です。じゃあ……残業が中止なら、前に言ってたあの予算は、休暇の手当として——」
「だから」
私は氷のように言葉を差し込み、平原の欲に濡れた顔など見もしないで、淡々と続けた。
「徹底して社員の健康を守る。皆さんと、ネットの『民意』に沿う」
「そのために、決めました。本日午後六時より——会社は全面封鎖します」
背筋を伸ばす。声の温度が一段下がり、刃物みたいに突き刺さった。
「お盆の九連休のあいだ、ビルは全館停電。ネットワークサーバーも全遮断。入退室システムも停止」
「いかなる理由があろうと、社員は一歩たりとも社内に立ち入ることを禁じます」
「勝手に出社して残業した者、あるいは自宅で業務を行った者も——発覚次第、休み明けに即日解雇。例外はありません」
言い切った瞬間。
会議室は、死んだように静まり返った。
平原の笑顔が、ぴしりと凍りつく。
口を半分開けたまま、喉を掴まれた魚みたいに声が出ない。
村木が勢いよく立ち上がった。
「小野さん?!」声が震えている。
「な……なにを言って……停電? 残業禁止って……!」
