第4章
「どうした、村木。聞こえなかったのか?」
私は口元だけ笑って見せる。
「これ、お前らがグループチャットで声高に言ってたことだろ。金と引き換えに命を削るのは拒否、資本家の搾取は拒否。……いいじゃないか。私はお前らの提案を全面採用した。絶対に純粋で、仕事の不安なんて一欠片も混ざらない――完璧な休暇をくれてやる」
「で、でも……でも……」
村木は今にも泣き出しそうで、声が震える。
「50万円のボーナス……それに3倍の給与は……」
「当然、全部取り消しだ」
私はきっぱり言い切る。
「残業しないなら、どこに残業代が発生する?」
「それは私たちの手当でしょ! 年末の特別手当!」
平原が甲高い声で叫んだ。
「何の権利があって取り消すのよ! 福利厚生のピンハネじゃない!」
「特別手当?」
私は平原を見据える。
「労働基準法のどこに、『民間企業は必ず特別手当を出せ』って書いてある? 私が出すなら、それは私の情だ。出さないなら、それは私の勝手だ」
「健康が欲しいんだろ。健康をやる。自由が欲しいんだろ。自由をやる」
「――ほら、今。お前らは自由だ」
私は見下ろす。
さっきまで狂喜していた顔が、一瞬で絶望に沈み、呆然とし、恐怖に染まっていく。
村木の血の気の引いた顔。佐々木が苛立ちに髪をぐしゃぐしゃ掴む姿。
私は笑った。
「ついでに通達だ。休暇中に残業なしってことは、中村グループのS級案件は納期に間に合わない。違約金は……だいたい3億円ってとこだ」
「この金は下期の利益から差し引く。つまり――ここにいる全員、今年の年末賞与は全額カットだ」
私は踵を返し、会議室を大股で出ていく。
背後が、ふっと無音になった。
次の瞬間。
先ほどよりもさらに激しい、恐慌と怒号が炸裂する。
午後2時。
会社のブレーカーを落とすまで、あと4時間。
フロアはまるで煮えた鍋だ。
私は自室に腰を下ろし、監視モニター越しに冷ややかにその喜劇を眺めていた。
廊下では村木が佐々木の腕を掴んで激しく言い合い、残業代で借金を返すつもりだった連中が、平原を囲んで詰め寄っている。
バン、とドアが押し開けられた。
早坂が真っ青な顔で飛び込んでくる。タブレットを掲げたまま。
「小野さん! 大変です! 中村グループの中村剣介が、今すぐビデオ会議を要求してきました!」
私の目が鋭くなる。
中村グループ――うちの最大のスポンサーであり、今回のS級案件の発注元。
中村剣介は、結果しか見ない冷徹な男として名が通っている。
「つなげ。外の大フロアのスクリーンに投影しろ」
立ち上がり、スーツの上着を整える。
「全員に見せる」
二分後。
フロア中央の巨大モニターが点いた。
画面に映ったのは、中村剣介の冷え切った顔。
さっきまで怒鳴り合っていた連中が、ぴたりと黙る。
「小野柚希」
挨拶すら省き、氷みたいな声。
「ネットのトレンドは、どういうことだ?」
私は画面の前へ進み出る。
「社内管理上の、ちょっとした行き違いです。中村さん、お見苦しいところを」
「行き違い?」
中村が鼻で笑う。
「StarPoint Mediaは今、ネット中で『搾取工場』のレッテルを貼られている。うちは上場企業だ。社会的イメージが命だ。世論の反動でいつ吹き飛ぶか分からない会社に、最重要のS級案件を預けるわけがない」
フロアのあちこちで、息を呑む音がした。
中村が手を引けば、資金繰りが崩壊する。年末賞与どころじゃない――会社が潰れる。
「中村さん、説明させてください……!」
早坂が汗だくで食い下がる。
「説明はいらない」
中村は切り捨てた。
「内部で何をやっていようが関係ない。私は結果しか見ない」
「第一。トレンドは今夜までに消せ。負の影響を完全に抑え込め」
「第二。休暇明け初日、S級案件の完璧な初稿を出せ。一文字でも欠けたら、契約どおり違約手続きだ」
「できないなら、次の四半期の更新は全て白紙にする」
画面がぷつりと暗転した。
一方的な通話終了。
フロアが、墓場みたいに静まり返る。
「終わった……全部、終わった……」
佐々木が椅子にへたり込む。
「会社が潰れたら、私どこで働けばいいんだよ……」
村木は顔を覆い、とうとう泣き声を漏らした。
その時だ。
平原が、すっと前へ出た。
私を指差す。
「みんな、見たでしょ! これが彼女の独断の末路よ!」
「小野さん、全部あなたが原因。変な形で残業させようとしたから、こんな炎上になった。会社全体を巻き添えにしたのよ!」
「会社を守るため、みんなの生活を守るために――あなたは責任を取って辞任すべきよ! それに、自分の株を使って、みんなに退職金を出しなさい!」
外圧を盾にして私を追い出し、ついでにでかい金までせしめるつもりか。
私は、欲に歪んだその顔を見て、静かに拍手した。
「平原。いい筋書きだ」
私は彼女の前まで歩み寄り、見下ろす。
「責任を取って辞任? 退職金?」
