第2章
床に腹ばいになり、下半身のあたりを必死で探った。指先で闇をかき回すように、手当たり次第に触れていく。
――空っぽ。
ふいに思い出す。さっき空がしゃがみ込み、わたしの指先を叩き落としたあの瞬間。あの子はわざと、わたしのコートのポケットをひとなでした。
……携帯を持っていったんだ。
背骨を氷で貫かれたみたいな寒気が走り、心臓の締めつけがさらに強まる。わたしは自分の手首に噛みついた。鉄錆みたいな血の味が口いっぱいに広がるまで噛みしめて、胸の痛みを無理やり手首へ逃がす。
――二日後。
東京は、十年に一度の暴風雪に見舞われた。
あの書類にサインしてからというもの、颯斗は相変わらずわたしをここへ閉じ込めた。口ではもっともらしく言う。
「嘘だらけの女だ。ここで反省しろ」
そのうえ、この寝室の暖房まで止めた。
窓の隙間から冬の風がじわじわ侵入し、肌を削っていく。
薄い毛布を二枚重ね、ベッドの頭側で身を丸める。唇ががたがた震え、紫がかった色へ変わっていくのが分かった。低温は心臓の負担をさらに増やす。
そのとき――
「……っ、ぐ……」
胸に刃物を突き立てられ、ねじ込まれたみたいな激痛。わたしはベッドから転げ落ちた。
一昨日より、ずっとひどい。息を吸うたび途切れ途切れになり、心臓が血を押し出せない。手足の感覚が、じわじわと消えていく。
薬……飲まなきゃ……。
歯を食いしばり、みっともなく床を這ってベッドサイドの引き出しへ向かう。指先が床を引っ掻き、ぎりぎりと嫌な音を立てた。全身の力を振り絞って、一番下の引き出しを開ける。
そこにだけ残しておいた、強力な頓服。
手を突っ込む。
……ない。空だ。
「それ、探してるの?」
幼い声がドアの向こうから響いた。
必死に顔を上げる。
半開きの扉のところに空が立っていた。きちんとした小さな燕尾服。髪は子ども用のジェルでぴしっと整えられている。手の中で、白い薬瓶をぽん、ぽん、と弄んでいた。
――わたしの命。
「空……」
ありったけの力で手を伸ばす。喉は砂を呑んだみたいに乾いて、声が割れた。
「薬を……ママに……救急車を……お願い……わたしの、息子……」
空は手を止め、見下ろしてきた。そこにあるのは嫌悪だけ。
「また床を這ってる。美愛ママの言うとおり、ほんと死んだ犬みたい」
呼吸が数秒、止まりかけた。
「薬を、よこして!」
叫んだ瞬間、視界が黒く滲む。
「それ、命の薬なの……飲まないと……死ぬ……!」
空は渡さない。むしろ背中に隠した。
「やだ。あげない」
唇を歪め、子どもの声で大人みたいな残酷さを吐く。
「おじいさんとおばあさんとお父さん、下で待ってるんだ。今夜は美愛と渋谷の最高級チャリティー・ディナーに行くの。お父さん、壇上で表彰されるんだよ」
冷や汗がぽた、ぽた、と床に落ちる。喉の奥から鉄錆の味がこみ上げた。
「空……ママ、もう……」
視界が溶け、言葉がちぎれる。
「お願い……投げて……一粒でいい……」
「それ飲むと、いつも救急車呼んで大騒ぎして、みんなにお父さんの恥をさらすじゃん」
空の目は冷え切っていた。
「今日は絶対、完璧な晩餐を壊させない」
そう言うと、空は寝室のバスルームへ入った。
「待って……空、やめて……!」
わたしは絶望で這い寄る。
でも遅い。
浴室の前で、わたしは見た。わたしが自分の手で食べさせて育てた息子が、白い薬瓶の蓋を開け――今夜だけでも生き延びるための頓服を、丸ごと便器へ流し込むのを。
「じゃああ……」
耳を裂く水音。渦が回り、最後の希望が綺麗に消えていく。
空は空になった瓶を放り投げた。タイルを転がる、乾いた高い音。
小さな革靴が、震えるわたしの指先の横を踏み越えていく。振り返りもしない。
ドアの外で、ノブを握った。
「おとなしく中で反省してて。出てきて恥さらさないでね」
「カチャ」
外側から鍵がかかった。
冷たいタイルの上。体温が急速に奪われていく。
しばらくして、階下で玄関の扉が閉まる音がした。続けて車のエンジン音。両親が空を急かしながら笑い合う声まで聞こえる。
外には、彼らが待ち望む宴。眩いスポットライトと拍手。
ここは、暖房もなく、通信手段もなく、扉まで封じられた地獄。
心臓の鼓動は弱くなる。
でも――このまま死ぬわけにはいかない。美愛の言う「死んだ犬」みたいに、理由も分からず這いつくばって終わるなんて。
まだ、方法がある。
下唇を噛み切り、神経を奮い立たせる。感覚を失った両脚を引きずり、衣装棚まで這う。古い靴箱の奥から、画面の割れた古いスマホを掘り出した。二年以上前に替えた旧機種だ。
「……ついて……お願い……神さま……!」
画面が灯った瞬間、泣きそうになった。
冷たい壁にもたれ、震える指で、覚えた番号を一つずつ打ち込む。
耳に押し当てる。永遠みたいに長い呼び出し音が、頭の芯を削っていく。
「……ツー……ツー……」
「カチッ」
通話が繋がった。
