氷に眠る裏切り

氷に眠る裏切り

渡り雨 · 完結 · 20.6k 文字

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紹介

十年の結婚生活。わたしは颯斗のために建築士としての図面を捨て、この家のために心血の一滴まで搾り尽くした。――それが愛だと信じていた。

けれど、終末期心不全だと告げる診断書を握りしめて家の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、夫と両親が妹の美愛を囲んで乾杯している光景だった。彼らは「合法的な書類」で、わたしの最後の手術費まで奪い取っていた。

胸を裂くような激痛に耐えながら、血を分けた家族だと縋りつき、どうか生きる道をくれと乞うた。

だが――信託契約書が容赦なく顔に叩きつけられたとき、ようやく理解した。

この人喰いの化け物たちの目には、わたしの生死など、美愛の咳ひとつより軽い。

そして、いちばん致命的な刃は、いつだって血の繋がった者が突き立てるのだ。

チャプター 1

 屋敷の外。病院の用紙を握りつぶすように掴み、指先が白くなる。息を整えることすらままならないまま、わたしはリビングの扉を押し開けた。

「乾杯!」

 澄んだグラスの音と、弾む祝福の声。針みたいに耳の奥へ刺さる。

 仕立てのいいスーツを纏ったわたしの夫・颯斗は、美愛に寄り添い、親密そうにシャンパンを注いでいた。ソファには両親が並び、にこにこと二人を見守っている。

 ……なんて、仲のいい家族。

 鈍い痛みを飲み込み、壁に手をついて一歩ずつ進む。胸の奥がきしみ、息が漏れる。

 それでも、かすれそうな声で呼んだ。

「颯斗……!」

 颯斗が振り向いた。そこにあったのは、露骨な嫌悪。

「署名しろ」

 彼は書類を一束、わたしの足元へ放り投げた。

 呆然と見下ろす。紙の上に並ぶ名前――わたしの名前。指先が震える。

「……なに、これ……?」

「信託契約だ。お前がサインすれば、共同口座とこの家の受益者は全部、美愛に移る」

 颯斗はシャンパンを一口。まるで夕食の話でもするみたいな軽さだった。

 爪が掌に食い込み、痛みで我に返る。目の前の男を睨みつけた。十年、愛した男。

「……全部、彼女に渡す気?」

「お姉ちゃん、颯斗さんを責めないで」

 美愛が瞬く間に目を赤くして、慣れた仕草で颯斗の背に隠れる。

「先生が言ってたの。わたしのうつ病、トップの施設なら治るかもしれないって。すごく大事なチャンスなの……颯斗さんは、わたしが安心して行けるように――」

「それ、婚姻中の財産よ」

 わたしは美愛の「弱い顔」を見つめた。いつもそうだ。

 すぐさま母が立ち上がり、指を突きつけて怒鳴る。

「晴美! あんた、姉としての良心はないの? 美愛がどれだけ重い病気か分からないの? 家と貯金を譲ったっていいじゃない! 颯斗が養ってくれるんだから、あんたは困らないでしょ。何を争うのよ!」

「……養って、くれる?」

 乾いた笑いが漏れた。

 わたしが家に入って子どもの世話をするようになってから、支出は全部、彼の機嫌次第。食費でさえ一日1000円ずつ渡される。足りない分は、夜中にこっそり図面の修正の仕事を受けて埋めていた。

 息を吸い直し、手に握っていた書類を颯斗へ差し出す。

「お金が必要なの。本当に。医者に言われた……心不全。手術を準備しないと、二か月もたないって」

 リビングが一瞬、しんと静まった。

 次の瞬間――颯斗が嘲笑した。

 彼は書類をひったくり、目も通さずにビリビリと破り捨てる。床へ放り投げ、革靴の先で二度、ぐりっと踏みつけた。

「晴美。美愛と張り合うために、偽の病歴まで買うようになったのか?」

 見下ろす眼は嫌悪で濁っている。

「金をせびるための芸……吐き気がする」

「嘘じゃない!」

 声が掠れた。

「ちゃんとした病院よ。印もある……正式な通知なの!」

「もういい!」

 父が茶几を叩いた。顔いっぱいに失望を貼り付けて。

「妹が病気だというのに、仮病で治療の機会を奪う気か。どうしてこんな冷血で自分勝手な娘に育った!」

 ……わたしの父。母。妹。夫。

 全員が、わたしを「敵」だと見ていた。

 胸が、ぎゅっと掴み潰される。視界が揺れ、喉がひゅうひゅう鳴った。

 わたしは膝から崩れ、床に倒れ込む。

「芝居はやめろ」

 颯斗はわたしの青白い顔を一瞥し、淡々と告げた。

「たとえお前が死んでも、妹の邪魔はさせない。――一分だ。署名しろ」

「美愛の慈善晩餐会用ドレスの試着に付き合う。時間の無駄だ」

 床の書類を冷たく見下ろし、言い捨てる。

「戻ったとき、まだここにあったら許さない」

 そう言うと、彼は背を向けた。もう二度とこちらを見ない。

 両親も美愛を優しく囲い、玄関へと向かっていく。

 わたしは胸を押さえ、床で丸まった。痛みで言葉がつながらない。

 そこへ、小さな影がしゃがみこんだ。七歳の息子、空。

 必死に手を伸ばし、少し先の電話を指さす。

「空……お願い……ママの……救急車を……」

 空は俯いた。泣きもしない。慌てもしない。

 そして――わたしの指先を、ぱんっと叩き落とした。

「美愛ママの言うとおり」

 高慢で、嫌悪に満ちた瞳。幼い声が刃になって心臓へ突き刺さる。

 心不全の痛みより、深く。

「ママは嘘つきの貧乏人だもん。救急車なんて呼んだら、パパと美愛の邪魔になる」

 空は大きな扉を閉めた。

 闇と冷たさだけが残る床に、わたしは一人きりで取り残される。

 そのとき、心臓を捻じ切るような痛みが走った。身体ががくがくと痙攣し、力が抜けていく。

 スマホに手を伸ばそうとして――指は空を掴んだ。

 ……ない。

 スマホが、消えていた。

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