第3章
「晴美?」
受話器の向こうから颯斗の声が飛んできた。電話越しでも、露骨な苛立ちが伝わる。
「どこで携帯を手に入れた? 連絡手段は全部取り上げたはずだろ」
「颯斗……」
口を開けば、喉の奥から鉄錆の味がせり上がる。必死に飲み込み、絞り出した。
「救急車……お願い……救急車を呼んで……」
「また何の騒ぎだ?」
背後で、美愛の甘ったるい声が「颯斗さん」と呼ぶのが聞こえた。颯斗は反射的に受話器を手で覆い、向こうに二言三言なだめる声を落としてから、こちらへ戻ってくる。
戻ってきた声は、冬より冷たい。
「俺を帰らせるために、死んだフリを二度もやる気か? 下品な真似を」
「嘘じゃない……空が……頓服を……全部トイレに流して……」
指の節まで、凍って青紫に染まっていた。
「わたし……ほんとに……死ぬ……」
「トイレに流した?」
颯斗が鼻で笑う。その一息に、蔑みが詰まっていた。
「晴美。金のためなら、七歳の子どもに罪を着せるのか? 昨日、空はお前の芝居に吐いたんだぞ。美愛が半晩看病したのに、今さら被害者ぶる? 子どもまで利用する――悪毒な女だ」
心臓が血を送れず、痙攣するたび視界が暗くなる。内臓が絡まり、息が詰まって、声がうまく出ない。それでも。
「お願い……」
痛みを噛み砕きながら、やっとのことで言葉にした。
「痛い……ほんとに……痛いの……」
「なら我慢しろ!」
夫としての温度など、どこにもない。
「お前がその部屋で死のうが、今夜は帰らない。明日の朝9時、離婚弁護士を連れて行く。離婚届に署名しないなら、路上で物乞いさせてやる!」
「ツー――ツー――ツー――」
通話は、容赦なく切れた。耳を刺す忙し音だけが残る。
床に伏したまま、古い携帯が硬直した指からするりと滑り落ちた。胸の奥をねじ切る痛みは、頂点まで昇り詰めたあと――奇妙なほど、すっと麻痺していく。
……目を動かす。
一メートル先のサイドテーブル。そこに、空が昨日ちぎった落書き用紙が置いてあった。黒いクレヨンで、醜い女が木に吊るされている。横には歪んだ字でこう書かれていた。
『しね うそつきの ばばあ』
その隣に、写真立て。去年の感謝祭の集合写真だ。
写真の中で颯斗は美愛の手を握り、七面鳥を切っている。実の両親は左右から空を抱き、頬にキスをしていた。
そして――正妻のはずのわたしは、台所でスープを運ばされている最中で、写真の端にさえ影が入っていない。
……笑える。
この人たちのために、十年分の血と汗を絞り尽くした。息が途切れそうな今でさえ、彼らは「うつ病のふりをする女」のために、わたしの尊厳を踏みにじる。
涙は出なかった。血の温度が低すぎて、流れない。
この世界にも、この十年の結婚にも、もう未練はない。愛は凍え死に、期待は消し炭になった。残ったのは――怒りと執念だけ。
だから、絶対に得をさせない。
わたしは最後の息で、古い携帯を掴み直した。指が痙攣して曲がらない。硬い関節で画面を突くようにして、メッセージ画面を開く。
宛先――東京市警察局 重案係
本文――
「私が死んだら、家の部屋の監視カメラのクラウド記録を調べてください。夫颯斗と息子空が私を殺しました」
送信を押した、その瞬間。
心臓が、すっと底へ落ちた。
痛みはなかった。
ただ身体が鉛みたいに重くなり、世界がゆっくり沈んでいく。呼吸が止まった。
人が死ねば、天国か地獄へ行くのだと思っていた。
――けれど、わたしは驚く。
また「目を開けて」いた。
寒さも痛みもない。わたしは天井の隅に、ふわりと浮かんでいる。
下を見ると、木の床に伏している自分がいた。
灰青色の顔。口元に乾いた血。乱れた髪が床に貼りつき、冷たい風に吹かれて硬くなっている。
……わたしは死んだ。
しかも、最後の体面すらない。
屋敷は死んだように静まり返っていた。
やがて階下から、スポーツカーの下品なエンジン音が響く。
午前2時。
玄関が乱暴に押し開けられた。
螺旋階段を駆け上がる足音。颯斗だ。
鼻歌まじりに、あの夜会のワルツを口ずさみ、シャンパンの甘ったるい匂いをまとって。
「カチャ」
鍵が回り、扉が外からねじ開けられる。
「晴美、寝たふりはやめろ。起きて署名しろ」
ネクタイを雑に引き抜き、酒気を漂わせたまま大股で入ってくる。部屋の灯りは点けない。ベッド脇まで来ると、床にある遺体の太腿を、重く蹴った。
「明日の朝、会社に何億のM&Aが――」
声が喉で詰まった。
蹴った感触が、生きた人間じゃない。硬い木材みたいだったから。
颯斗は眉を寄せ、苛立ったように壁のスイッチを押す。
冷たい白の光が、部屋を満たした。
わたしは宙で、彼を見下ろす。
颯斗は床の顔――見慣れたはずの顔を凝視した。瞳が揺れる。
「……晴美?」
試すように呼び、つばを飲み込む。
つま先で肩を弄ると、遺体は人形みたいに硬く――
「ドン」
反動で、ごろりと仰向けに転がった。
颯斗が息を呑む。
幽霊でも見たように後ずさり、背中を「ガン」とドア枠に打ちつけた。手にしていたジャケットが床へ落ちる。
「……もう、装ってないわ。颯斗」
わたしは宙から、恐怖で真っ白になった彼の顔を見つめ、静かに言った。
