第4章

 ドア枠にもたれたのは、せいぜい五秒にも満たなかった。

 次の瞬間、わたしは見た。颯斗が震える手でスーツの内ポケットからスマホを引き抜き、どこかへ発信するのを。

「……広報部の責任者か?」

 声をぐっと落とし、焦りを押し殺した調子。

「俺だ。……明日の買収案件に、悪いニュースは一切出せない。何とかしろ」

 電話を続けながら、彼は床のわたし――見慣れたはずの顔へ視線を投げた。迷いが一瞬だけ滲む。

 それでも、言葉は平然としていた。

「妻が……重度のうつで、突発的に自殺した。十五分後に警察へ通報する」

 通話を切ると、今度はわたしの妹――美愛へ。

「美愛、問題が起きた。晴美が死んだ」

 颯斗は耐えきれないみたいに顔を背け、床のわたしを見ないまま続ける。

「父さんと母さんを落ち着かせろ。明日、警察に聞かれたら『前から精神が不安定で自殺した』って言うんだ。……晴美の生前の望みは、俺がこの家族を守ることだった。きっと理解してくれるはずだ……」

 ――わたしは宙に浮かび、それを黙って見ていた。

 十年愛した男が隠そうとしているのは、わたしの死じゃない。

 明日の朝の、何億という金だ。

 翌朝。

 雪は止み、邸宅の外に黄と黒の規制線が張られた。点滅する警灯が、雪原に突き刺さるみたいに眩しい。

 法医と重案係の警官が出入りし、遺体は黒い袋へ収められる。ジッパーが閉じられたその瞬間――颯斗はリビングのソファに沈み込み、「悲嘆に暮れる夫」を演じていた。

 今日は髪にジェルもつけていない。シャツの襟は乱れ、目は血走っている。手には、わたしの写真。握り潰すみたいに。

「警官……申し訳ありません……」

 嗄れた声で目元を拭い、震える息まで作る。

「昨夜は慈善の晩餐会に出席していて……彼女が家で、こんなことをするなんて……」

「うつの既往は?」

 記録係の若い男性警官が、気の毒そうに尋ねた。

「……はい」

 かぶせるように、母が泣き声を上げる。

「この子は昔から少し冷たいところがあって……重い抑うつを抱えていたんです。結婚して良くなると思ったのに、まさか……」

 母は紙ナプキンで涙を拭き続け、父は痛ましげに肩へ手を置きながら言葉を継ぐ。

「警官。娘は昔から負けん気が強くて、身体の弱い心優しい妹を妬んでは、颯斗さんに金をせびるための真似をしてきました」

「最近、颯斗さんが余った金を妹の治療へ回すと聞いた途端、仮病で騒ぎ、毎日『自殺してやる』と脅して……。まさか本当に……」

「颯斗は立派な夫です」

 父は畳みかける。

「家計を支えながら、妻の精神的な折檻にも耐えてきた。典型的な産後うつが拗れて、どんどん過激になって……」

 ――吐き気がした。

 自分たちの娘が死んだ直後ですら、平気で泥を塗る。金の婿を守るため。美愛を守るため。自分たちの老後を守るために。

「お父さん……」

 階段口から、か細い声。

 七歳の空が、防寒用のパジャマ姿で目をこすりながら降りてきた。警官だらけの室内に、幼い好奇心が一瞬だけ揺れる。

 颯斗はすぐに歩み寄り、空を抱き上げて胸へ押しつけた。子どもの顔を隠すように。

 そして警官へ向き直る。

「すみません。子どもにはまだ、母親が……いなくなったことを……」

「お子さんは部屋へ。……ご愁傷さまです」

 若い警官が手帳を閉じた。

 すべてが颯斗の台本どおりに進む。

 「自殺」という言葉で海の底へ沈めれば、誰も疑わない――そのはずだった。

「待ってください」

 玄関から、冷えた女の声が飛んだ。

 短髪の女警官が大股でリビングに入ってくる。手には薄い透明の証拠袋。視線は刃物みたいに全員を薙いだ。

「村崎警部」

 若い警官が反射的に立ち上がる。

 村崎は脇目もふらず、颯斗の前で止まった。同情は一滴もない目で見据える。

「颯斗さんですね」

 スマホに表示した報告書を示す。

「法医の初見では、遺体の体表所見がこの病院記録と一致しています」

 颯斗の口元が引きつった。

 顔を上げる。

「それは推測だろ……」

「最後まで聞いて」

 村崎が冷たく遮る。

「彼女は自殺ではありません」

 空気が凍った。

 母の泣き声が止まり、父は口を開けたまま固まる。

 颯斗は目を泳がせ、平静を装った。

「警官、意味が分かりません」

「死因は終末期のうっ血性心不全に、極寒による急性心筋梗塞が重なった可能性が高い。市立病院の治療記録は確認済みです」

 村崎は一語ずつ、釘を打つように続ける。

「死者は、数時間にわたる重度の狭心痛を耐え、低酸素と低体温のまま生理的に死亡した」

 颯斗の顔色が変わった。

 それでも後ろへ体重を逃がし、震えを飲み込む。

「……あり得ない。彼女は以前も仮病を――今回はその……」

「芝居だと思った?」

 村崎が鼻で笑う。

 証拠袋から、画面の割れた古いスマホを取り出し、颯斗の目の前で揺らした。

「ちなみに昨夜、重案係にこの端末から救難メッセージが届いています」

 颯斗の視線が吸い寄せられる。

 わたしも、見つめた。

 ――死ぬ数秒前、送信を押した、あの一通。

「メッセージには、この家の監視カメラが証拠になると書かれていた」

 村崎は、眠そうな空を一度だけ見てから、颯斗へ視線を戻す。

「映像は一度フォーマットされていましたが、技術班が復元しました」

 颯斗の膝の上で、指がぴくりと止まった。

「床を這って救命薬を探す被害者の姿。あなたの息子が救命薬をトイレに流し、ドアを施錠する瞬間」

 村崎は淡々と告げる。容赦なく。

「そして、最後にあなたが通話を切った、その録音も残っている」

 村崎はローテーブルに両手をつき、身を乗り出した。

 血の気が引き、冷汗に濡れた颯斗の顔へ、刃を突き立てるように。

「法医の正式な鑑定はまもなく出ます」

 声は静かなのに、逃げ場がない。

「その前に――ここで、ご家族の前で、あなた方の『名演技』を再生しましょうか?」

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