第2章
午後三時、タクシーは私をサリヴァン財閥の前で降ろした。
人事部長であるナンシーのオフィスは三階にある。私は二度ノックをして、ドアを押し開けた。
「ナンシー、退職したいの」
印刷した退職届を彼女のデスクに置く。
ナンシーは勢いよく椅子から立ち上がった。「えっ!?レミー、どうして?マイケルは知っているの?」
私は困ったように微笑んだ。「彼にはまだ話していないけれど、もう決めたことなの」
「でも――」ナンシーは退職届をひったくるように手に取り、慌てた様子で文面に目を走らせた。「港のプロジェクトはもうすぐ終わるじゃない。完成まであと少しなのに、どうして今なの?」
私はただ首を横に振り、微笑みを崩さなかった。
ナンシーは退職届をデスクに置き、声を和らげた。「レミー、あなたはうちで一番優秀な戦略プランナーよ。あなたがいなくなったら、私たちはどうすればいいの?」
「ごめんなさい、ナンシー」
彼女はこめかみを揉みながら、深くため息をついた。「あなたの役職だと、退職にはマイケル本人の承認が必要なの。彼のサインをもらってきてもらうしかないわね」
「わかっているわ」と私は答えた。「今から彼のところへ行ってくる」
スマートフォンを取り出し、マイケルに電話をかける。二度目のコールで彼が出た。
「どこにいるの?」
「オフィスだ。どうした?」
「サインしてほしい書類があるの」
マイケルのオフィスのドアは半分開いていた。それを押し開けた瞬間、私はその場に凍りついた。
イヴェインが、マイケルの黒い革張りの椅子に座っていたのだ。彼の椅子。他の誰にも絶対に触らせない、あの椅子に。
マイケルは彼女の後ろに立ち、両手でひじ掛けを包み込むように身を乗り出して、彼女の手にある報告書を指差していた。「ここの数字が見えるか?ここが問題なんだ……」
イヴェインは首を後ろに反らせて彼を見上げ、憧れの眼差しを向けた。「マイケルって本当に頭がいいのね。私にはこんなこと、絶対に理解できないわ……」
動けなかった。息もできなかった。
三年前。彼の秘書になって、まだ二ヶ月だった頃のこと。その日、私はひどい生理痛で、立っていることすらままならなかった。息を整えようと、ほんの一瞬だけ彼の椅子に腰を下ろしたのだ。
マイケルはすぐに私の腕を引いて立たせ、厳しい表情で言った。「レミー、ここは職場だ」
「いくら君が俺の婚約者でも、公私混同は避けるべきだ。俺の椅子には座るな」
それなのに、イヴェインは座っていいのか。彼女に対しては、公私混同のルールなど存在しないのだ。
そのルールは、私にだけ適用されるものだった。
悲しみが一気に込み上げ、喉の奥が詰まった。目頭が熱くなるのを感じた。
悟られないよう咄嗟にうつむき、強く瞬きをする。深呼吸するのよ。この場所とも、もうすぐお別れなんだから。
私は背筋を伸ばし、デスクへと歩み寄った。
マイケルは私の足音に気づいて顔を上げた。姿勢を正し、イヴェインの座る椅子から一歩下がる。「レミー?どうした?」
「サインが必要な書類があるの」
彼は私の手から退職届を受け取った。
「痛っ!」突然、イヴェインの悲鳴が空気を切り裂いた。
マイケルは弾かれたように彼女を振り返った。「イヴェイン、どうした!?」
彼は書類に目を通すことすらしなかった。ただペンを手に取ると、視線をイヴェインに向けたまま、一番下の欄にサインを殴り書きした。
そして屈み込み、彼女の手を取った。「ホッチキスの針で引っかけたのか?見せてごらん……」
そんな甘く優しい声を、私に向けられたことなど一度もなかった。
まったく、馬鹿げている。
私はサインされた退職届を取り上げ、背を向けた。マイケルがこちらを見ることはなかった。
その後、私は社員証と社用スマートフォンを返却し、最後の手続き書類にサインをした。
小さな段ボール箱を抱え、私はサリヴァン財閥のビルを後にした。
タクシーの中でスマートフォンを取り出し、航空券を検索した。明日の午後二時半発のフライト。
クレジットカードの情報を入力し、「購入を確定する」のボタンをタップする。
受信トレイに予約完了のメールが届いたのを確認し、私は長く息を吐き出した。
明日の二時半、私は自由になるのだ。
帰宅したヴィラは静まり返っていた。私たちの家。もっとも、ここを心から「私たちの居場所」だと思えたことなど一度もなかったけれど。
まっすぐ寝室に向かい、クローゼットの奥からスーツケースを引っ張り出す。
マイケルが買ってくれたブランド物のバッグ。靴。ジュエリー。それらには一切手を触れず、すべてクローゼットに残しておくことにした。
結局のところ、これらは何一つとして私のものなどではなかったのだ。
疲労困憊だった。私はソファに倒れ込み、無意識にスマートフォンを開いてSNSのタイムラインをスクロールした。
一番上に表示されたのは、イヴェインの投稿だった。
写真には、高級ブティックで彼女のそばに立つマイケルの姿が写っていた。ずらりと並んだ店員たちが、彼女に選ばせようとジュエリーボックスやハンドバッグを差し出している。イヴェインは片手をダイヤモンドのネックレスに添え、カメラに向かって満面の笑みを浮かべていた。
添えられた文章にはこう書かれている。「今までで最高のショッピングをありがとう!」
私はその画面をじっと見つめた。
付き合って五年になるけれど、彼はいつも買い物なんて面倒だと言っていた。人混みでごった返す店は嫌いだと。
買い物が嫌いだったわけではないのだ。ただ、私と一緒に買い物をするのが嫌だっただけ。
スマートフォンを放り出し、ソファの背もたれに深く体を沈めて天井を見上げた。
骨の髄まで疲労が染み渡っていくようだった。
玄関のドアが開く音がして、私は身を起こした。午後八時。ネクタイを緩め、鞄を手にしたマイケルが入ってくる。
彼はエントランスで足を止め、リビングを見回した。「レミー、飾ってあった小物類はどうしたんだ?どうして全部片付けてしまったんだい?」
心臓が跳ねたが、私は平静を装った。「業者に頼んで、家の大掃除をしてもらおうと思っているの。壊れやすいものは、傷がつかないようにしまっておいたわ」
「ああ、なるほど」マイケルは頷きながら歩み寄り、ソファに座る私の隣へ腰を下ろした。
彼は少しも疑っていないようだった。
マイケルは私の手を取り、申し訳なさそうな表情を浮かべた。「レミー、今日はすまなかった。俺が……」
「いいのよ」私は静かに彼の言葉を遮った。
「いや、よくない」彼は私の手をぎゅっと握りしめた。「だが約束する。明日は一日中、完全にオフにした。誰にも邪魔はさせない。明日の朝、婚姻届を出しに行こう。いいかい?今度こそ必ずだ。約束するよ」
その瞳は、あまりにも誠実そうに見えた。
私は口を開きかけた。会社を辞めたこと、そしてここを去ることを伝えようとして。
「マイケル、あなたに話しておきたいことが……」
その時、彼のスマートフォンが鳴った。
例の着信音だった――軽快で明るいピアノのメロディ。彼がイヴェインのためだけに設定している特別な着信音だ。
マイケルは画面をちらりと見て、ほんの一瞬だけためらいの表情を浮かべた。
しかし、すぐに電話に出る。
「イヴェイン?……なに?水道管が破裂したって?」
電話越しでも、彼女の甲高くパニックに陥った声が漏れ聞こえてきた。「マイケル、部屋中水浸しなの!どうしていいかわからなくて……」
マイケルは立ち上がり、すでに車のキーへと手を伸ばしていた。「すぐに行くから。落ち着いて」
彼は電話を切り、申し訳なさそうに私を振り返った。「すまない、イヴェインのマンションで水漏れのトラブルがあってね。修理を手伝いに行かないと」
水道管のトラブル。大家に電話すればいいじゃない?管理会社は?水道業者は?
だが、私は何も口にしなかった。
マイケルはジャケットを手に取り、ドアのところで立ち止まった。そして、私の方へ振り返る。「そういえば、俺に話ってなんだった?」
