第3章

 私は一瞬、動きを止めた。

 それから微笑んで、首を横に振った。「なんでもないわ。大したことじゃないの。行って、イヴェインを待たせないで」

 マイケルはドアに向かって歩き出し、すでにドアノブに手をかけていた。だが、そこで足を止めた。

 彼は振り返り、スマートフォンを取り出した。「やっぱりいいや。水道管の修理ならロレンツォに行かせるよ。今夜は君と一緒に過ごしたいんだ」

 彼は番号をダイヤルした。「ロレンツォ、イヴェインの家に行ってくれないか。水道管が破裂したみたいで……」

 私は少し驚いて彼を見つめた。「行かないの……?」

「君と一緒にいるって約束したからね」彼は電話を切り、再び私の隣に腰を下ろした。

 マイケルは私の手を取り、ほとんど懇願するような声で言った。「今夜はどこにも行かない。ここで君と一緒にいるよ」

 彼の真摯な瞳を見つめても、私の心は何も感じなかった。

 もしこれが一年前なら、私は飛び上がるほど喜んでいたことだろう。けれど今は、ただ何の感情も湧いてこない。

 私はただ静かに頷いた。「わかったわ」

 私たちがようやくベッドに入ったのは、午後十一時のことだった。

 私がシャワーを浴びて戻ると、マイケルがすり寄ってきて、その腕を私の腰に回した。

「レミー……」私の耳元で、彼が甘い声を囁く。「君が恋しかったよ……」

 私の身体はこわばった。私はそっと彼を押し返した。「ごめんなさい、今日は本当に疲れているの」

 彼は少し動きを止め、それから手を離した。「わかった。ゆっくり休んで」

 横になったばかりだというのに、再びあの着信音が暗闇を切り裂いた。イヴェイン専用の着信音だ。

 マイケルは勢いよく起き上がり、ナイトテーブルからスマートフォンをひったくった。

 私は目を開け、天井を見つめた。やっぱりね。

「イヴェイン? こんな遅くに……なんだって!? どこのバーにいるんだ?」

 電話の向こうから、彼女の酔っ払った声が漏れ聞こえてきた。「マイケル……気分が悪いの……迎えに来てぇ……」

 マイケルは布団を跳ね除け、ベッドから飛び降りた。そして、慌てふためきながら服を掴み取り始めた。

「イヴェインが一人でバーで酔い潰れてるんだ。あんなに遅い時間だし、危なすぎる。迎えに行ってやらないと」

 彼は服を着ながら、早口で焦ったように説明した。

 私は何も言わなかった。暗闇の中で彼がバタバタと身支度をするのを、ただ見つめていた。

 彼はジャケットを羽織った。「先に寝てて。すぐに戻るから」

「わかったわ。気をつけてね」私の声は、気味が悪いほど落ち着いていた。

 彼は何か違和感を覚えたようだったが、イヴェインから再び電話がかかってきたため、そのまま出て行くしかなかった。

 私はベッドに横たわったまま、下のガレージで彼の車のエンジンがかかる音を聞いていた。

 これが初めてではない。イヴェインはこれまで何度も「酔っ払った」だの「具合が悪い」だのと口実を作っては彼を呼び出してきた。そしてその度に、マイケルはすべてを放り出して彼女の元へ駆けつけていたのだ。

 翌朝、私は午前七時に目を覚ました。

 隣のベッドは冷たく、マイケルは結局帰ってこなかった。

 スマートフォンを確認する。着信履歴もない。メッセージもない。

 私は静かに起き上がり、顔を洗い、着心地の良い服に着替えた。

 それから、再びスーツケースの荷造りに戻った。

 午前九時、鍵が回る音がした。マイケルがドアを開けて入ってくる。

 彼の顔は疲れ切り、服はしわくちゃだった。そして、きつい香水の匂いが彼に染み付いていた。

 彼は私が大きなスーツケースに荷物を詰めているのを見て、立ち尽くした。

「レミー、君……出張に行くのか? 何も聞いてなかったけど」

 私は顔を上げなかった。「急に決まったの」

「そうか」マイケルは頷き、自分の書斎へと向かった。「いつ戻るんだ? 俺はちょっとプロジェクトの資料を取りに来ただけなんだけど」

 ブリーフケースを手にしたマイケルは、ドアに向かって歩き出し――ふと足を止め、振り返った。

「あ、そうだレミー。あの港湾プロジェクト、イヴェインに譲ってくれないか?」

「彼女、会社で地位を確立するために実績が必要なんだ……」

 シャツを畳みかけていた私の手は、空中でピタリと止まった。私は信じられない思いで顔を上げた。

「……え?」

 マイケルは私の視線を避けた。「その、港湾再開発のプロジェクトだよ……」

 脳裏にいくつもの光景がフラッシュバックする。

 凍えるような冬の夜の埠頭で、夜明けまで組合の代表と交渉を続けたこと。

 数え切れないほどの深夜、たった一人で企画書を修正し、関係者全員の利害を調整するために何十本もの電話をかけたこと。

 私はゆっくりと立ち上がり、彼を真っ直ぐに見据えた。「あれは私のプロジェクトよ。身を粉にして働いて、やっとの思いで手に入れたのに。それをただ譲れって言うの?」

 私の声は震えていた。ここから立ち去ることは分かっていたが、それでも自分自身のために主張せずにはいられなかった。

「あの契約を取るために、私がどれだけ苦労したか分かってるの!?」

 私の剣幕に驚き、マイケルは後ずさりした。

「三ヶ月よ、マイケル! 三ヶ月間、徹夜して、終わりの見えない会議をこなして、無理して酒の席にも付き合ったのよ!」

「分かってる。君がどれだけ頑張ったかは分かってるよ、でも――」

 マイケルは目を逸らし、窓の外を見つめた。「今回だけだ、レミー。頼む」

「君はもうすぐ俺の妻になるんだ。会社で自分の価値を証明するために、このプロジェクトは必要ないだろう」

「でも、イヴェインには必要なんだ。彼女は入社したばかりで、みんなから注目されている。実績を作らなきゃいけないんだ……」

 私の心は、カチカチに凍りついていた。

 私は冷ややかな目で彼を見つめ、そして頷いた。

「いいわ。あのプロジェクトは彼女に譲る」

 私はスーツケースに向き直り、もう二度と彼を見ようとはしなかった。

 マイケルはホッとしたような顔をした。何か感謝の言葉でも口にしようとしているようだった。

 ふと、彼は何かを思い出した。ブリーフケースに手を伸ばし、上品なギフトボックスを取り出す。

 彼はそれを私に差し出した。「忘れるところだった。これ、君に」

 箱を開けると、中ではダイヤモンドのピアスがまばゆい光を放っていた。

 ブランドのロゴを見て、すぐにピンときた。昨日、イヴェインがSNSに投稿していたのと同じ高級ブティックのものだ。

 つまり……これはイヴェインのついでに買ったおこぼれ? それとも、彼女のものを買うついでに、私にも一つ買ってくれたというわけ?

 私はふいに笑い出した。その笑い声には、自嘲と深い悲しみが入り混じっていた。

 私はこれまでピアスなんてつけたことがないし、そもそもピアスホールすら開いていない。マイケルからピアスを贈られたことなど、ただの一度もなかった。

 彼は、私のそんなことすら忘れてしまっていたのだ。

 それでも、私はそのギフトボックスを受け取った。どうせ出て行くのだから。こんな些細なことで言い争う意味などない。

「気に入った? 店員に一番いいデザインを選んでもらったんだ」

「ええ。ありがとう」

 マイケルは腕時計に目をやった。「俺からの謝罪の印だと思ってくれ」

「ああ、それから今日の午後二時、役所で待ってるからね」

「今度は絶対に邪魔は入らないって約束する。今日は確実に籍を入れよう」

 彼は私の返事を待つことすらなく、足早に部屋を出てドアを閉めた。

「午後二時、役所だよ。忘れないで!」

 私はナイトテーブルに歩み寄り、引き出しを開けた。そして、そのピアスを無造作に放り込んだ。

 引き出しの中はジュエリーで溢れかえっていた。ブレスレット、ネックレス、ブローチ。

 どれもこれも、この数年の間にマイケルが謝罪の代わりとして私に贈ってきたものばかりだ。

 そして、そのすべてが私の好みではないデザインだった。私は唐突に悟った。マイケルは、私が本当に欲しいものなど、一度たりとも覚えていてくれたことはなかったのだと。

 午前十時、荷造りがすべて終わった。たった二つのスーツケースに収まってしまった。

 三年間暮らしたこのヴィラを、最後にもう一度だけ見渡した。

 スーツケースを引いてドアを出ると、タクシーを呼んでそのまま空港へと向かった。

 フライトは午後二時半。ずいぶんと早く着いてしまった。

 スマートフォンの時計は午後二時を指している。

 私は画面を見つめた。マイケルからのメッセージも、着信もない。

 なんだかおかしくて、笑い出してしまいそうになった。私は一体なぜ、まだ彼からの連絡を待っているのだろう? 自分から出て行くというのに……。

 アナウンスが流れた。「マンハッタン行きの便にご搭乗のお客様、まもなく搭乗を開始いたします……」

 私が立ち上がったその時、スマートフォンが振動した。マイケルからのメッセージだ。

「レミー、ごめん。イヴェインが階段から落ちて、足に大怪我をしたんだ。彼女を病院に連れて行かなくちゃならない」

「少し遅れるかもしれない。先に役所に行って待っていてくれ。できるだけ早く行くから!」

 私はそのメッセージを冷めた目で見つめ、画面の上で指を走らせた。

「マイケル、あなたは遅刻なんかじゃないわ。だって、もう二度と役所に行く必要なんてないのだから」

「会社は辞めたし、あなたとは別れることにしたの。これからは、あなたの好きな人と一緒にいればいいわ」

「今後一切、私たちは関わりがない。永遠にさようなら」

 送信ボタンを押した直後、スマートフォンの画面が明るくなり、マイケルからの怒涛のようなメッセージで埋め尽くされた。

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