第3章

 私は一瞬、動きを止めた。

 そして微笑みを浮かべ、首を横に振った。

「ううん、何でもない。大したことじゃないから。行ってあげて、結衣さんを待たせちゃ駄目よ」

 健はドアに向かって歩き出し、すでにドアノブに手をかけていた。だが、そこで足を止めた。

 彼は振り返り、スマートフォンを取り出した。

「いや、やっぱりいい。水道管の修理なら鈴木に行かせるよ。今夜は君と一緒にいたいんだ」

 彼は番号をダイヤルした。

「鈴木、結衣の家に行ってやってくれ。水道管が破裂したらしい……」

 私は少し驚いて彼を見つめた。

「行か……ないの?」

「君と一緒に過ごすって約束しただろ」

 彼は電話を切り、再び私の隣に腰を下ろした。

 健は私の手を取り、すがるような声で言った。

「今夜はどこにも行かない。ここで君と一緒にいるよ」

 その真摯な瞳を見つめても、私の心は少しも動かなかった。

 もしこれが一年前の出来事なら、私は飛び上がるほど喜んでいただろう。けれど今は、何の感情も湧いてこない。

 私はただ静かに頷いた。

「わかった」

 ようやくベッドに入ったのは午後十一時のことだった。

 シャワーを浴び終えると、健がすり寄ってきた。彼の腕が私の腰に回される。

「玲奈……」耳元で甘い声が囁かれた。

「君が恋しかったよ……」

 私の体は強張った。そして、そっと彼を押し返した。

「ごめんなさい、今日はすごく疲れてるの」

 彼は一瞬動きを止め、やがて手を離した。

「わかった。ゆっくり休んで」

 横になってすぐだった。あの着信音が再び暗闇を切り裂いた。結衣からの専用の着信音だ。

 健は弾かれたように起き上がり、ナイトテーブルからスマートフォンを掴み取った。

 私は目を開け、天井を見つめた。ああ、やっぱり。

「結衣? こんな夜更けに……なんだって!? どこのバーにいるんだ?」

 電話越しに、彼女の酔っ払った声が漏れ聞こえてくる。

「健……気持ち悪いよぅ……迎えに来て……」

 健は布団を跳ね除け、ベッドから飛び降りた。そして慌てた様子で服を掴み取り始める。

「結衣が一人でバーで酔い潰れてるんだ。危険すぎる。迎えに行かないと」

 彼は服を着替えながら、早口で焦ったように釈明した。

 私は何も言わなかった。暗闇の中で彼がバタバタと身支度をするのを、ただ見つめていた。

 彼はジャケットを羽織った。

「君はもう寝てて。すぐに戻るから」

「わかった。気をつけてね」私の声は、不気味なほど落ち着いていた。

 彼は何か違和感を覚えたようだったが、結衣から再び着信があり、出て行くしかなかった。

 私はベッドに横たわったまま、階下のガレージで彼の車のエンジンがかかる音を聞いていた。

 これが初めてではない。これまで何度も、結衣は「酔っ払った」「体調が悪い」と理由をつけては彼を呼び出してきた。そしてその度に、健はすべてを放り出して彼女の元へと駆けつけていった。

 翌朝、私は午前七時に目を覚ました。

 隣のベッドは冷たいままで、結局、健は帰ってこなかった。

 スマートフォンを確認する。着信履歴もない。メッセージもない。

 私は静かに起き上がり、顔を洗い、動きやすい服に着替えた。

 そして再び、スーツケースに荷物を詰める作業に戻った。

 午前九時、鍵の開く音がした。健がドアを開けて入ってくる。

 その顔は疲れ切っており、服は皺だらけだった。そして、強烈な香水の匂いが彼に染み付いていた。

 彼は私が大きなスーツケースに荷物を詰めているのを見て、立ち尽くした。

「玲奈、君……出張に行くのか? そんな話、聞いてないけど」

 私は顔を上げなかった。

「急に決まったの」

「そうか」健は頷き、自身の書斎へと向かった。

「いつ戻るんだ? 俺はちょっとプロジェクトの資料を取りに来ただけなんだけど」

 健はブリーフケースを手に、ドアへ向かって歩き出した。だが、不意に立ち止まって振り返った。

「あ、そうだ玲奈、あの港湾プロジェクト、結衣に譲ってやってくれないか?」

「あいつが会社で足場を固めるには、実績になるプロジェクトが必要なんだ……」

 シャツを畳みかけていた私の手は、空中でピタリと止まった。私は信じられない思いで顔を上げた。

「……え?」

 健は私の視線を避けた。

「あの港湾再開発のプロジェクトだよ……」

 脳裏に様々な光景がフラッシュバックした。

 凍えるような冬の夜、埠頭で組合の代表と夜明けまで交渉を重ねたこと。

 幾度となく一人で深夜まで企画書を修正し、関係者の利害を調整するために何十本も電話をかけ続けたこと。

 私はゆっくりと立ち上がり、彼を真っ直ぐに見据えた。

「あれは私のプロジェクトよ。身を粉にして働きずくめで手に入れたのに。それをあっさり譲れって言うの?」

 声が震えていた。どうせここを去るのだと分かってはいても、自分の尊厳だけは守らなければならなかった。

「あの契約を取るために、私がどれだけの思いをしたか分かってるの!?」

 私のただならぬ気迫に驚いたのか、健は思わず後ずさった。

「三ヶ月よ、健! 三ヶ月間も徹夜続きで、終わりの見えない会議を重ねて、吐きそうになりながらお酒の席にも付き合ったのよ!」

「分かってる、君がどれだけ苦労したかは分かってる。でも――」

 健は視線を逸らし、窓の外を見つめた。

「今回だけだ、玲奈。頼む」

「君はもうすぐ俺の妻になるんだから、会社で実績を証明するためにこのプロジェクトにしがみつく必要はないだろ」

「でも、結衣には必要なんだ。あいつは入社したばかりで、みんなから注目されてる。どうしても会社に自分を認めさせなきゃならないんだ……」

 私の心は、芯まで完全に凍りついてしまったようだった。

 私は冷ややかな目で彼を見つめ、そして一つ頷いた。

「いいわ。あのプロジェクトは彼女に譲る」

 私はスーツケースに向き直り、もう二度と彼を見るまいと決めた。

 健はあからさまに安堵の表情を浮かべた。何か感謝の言葉でも口にしようとしたようだった。

 だが、不意に何かを思い出したように、ブリーフケースに手を入れて上品なギフトボックスを取り出した。

 そしてそれを私に差し出した。

「忘れるところだった。これ、君に」

 箱を開けると、中ではダイヤモンドのピアスがまばゆい光を放っていた。

 ブランドのロゴを見て、すぐにピンときた。昨日、結衣がSNSに投稿していたのと同じ高級ブティックのものだった。

 ということは……これは結衣のお下がり? それとも、彼女の分を買うついでに私の分も買ったということ?

 私はふいに吹き出した。その笑い声には、どうしようもない自嘲と悲哀が滲んでいた。

 私は今まで一度もピアスをつけたことがないし、そもそもピアスホールすら開いていない。健が私にピアスを贈ってきたことなど、これまで一度たりともなかった。

 彼は私のそんな些細なことすら、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 それでも、私はその小箱を受け取った。どうせもうすぐ出て行くのだ。こんな些細なことで言い争う気にもなれなかった。

「気に入った? 店員に一番人気のあるデザインを選んでもらったんだ」

「ええ。ありがとう」

 健は腕時計に目をやった。

「俺からのせめてものお詫びだと思ってくれ」

「ああ、それから今日の午後二時、市役所で待ってるからな」

「今回は絶対に邪魔は入らせない、約束するよ。今日こそ確実に籍を入れよう」

 彼はそそくさと身を翻し、私の返事も待たずにドアを閉めて出て行った。

「午後二時、市役所だからな。忘れるなよ!」

 私はナイトテーブルへと歩み寄り、引き出しを開けた。そして、そのピアスを無造作に放り込んだ。

 引き出しの中はジュエリーで溢れかえっていた。ブレスレット、ネックレス、ブローチ。

 どれもこれも、この数年間、健が機嫌取りや謝罪のたびに私に贈ってきたものばかりだ。

 そして、そのどれもが私の趣味には合わなかった。私はふと気がついた。健は、私が本当に望んでいるものなど、何一つ覚えていなかったのだと。

 午前十時、すべての荷造りが終わった。荷物はたったのスーツケース二つ分だった。

 三年間暮らしたこの邸宅を、最後にもう一度だけ見渡した。

 スーツケースを引きずってドアを出ると、タクシーを呼んでそのまま空港へと向かった。

 フライトは午後二時半。かなり早めに到着してしまった。

 スマートフォンの時計が午後二時を回った。

 画面を見つめる。健からのメッセージも、着信もない。

 私はなんだかおかしくて、吹き出しそうになった。どうして私は、まだ彼からの連絡を待っているのだろう? 出て行くのは私の方なのに……。

 館内アナウンスが流れた。

『エム区行きにご搭乗のお客様、まもなくご案内を開始いたします……』

 立ち上がったその時、スマートフォンが震えた。健からのメッセージだった。

『玲奈、ごめん。結衣が階段から落ちて足を大怪我したんだ。今からあいつを病院に連れて行かなきゃならない』

『少し遅れるかもしれない。先に市役所に行って待っててくれ。できるだけ早く向かうから!』

 私はそのメッセージをじっと見つめ、画面の上で指を滑らせた。

『健、あなたは遅刻なんかしてないわ。だって、もう二度と市役所に行く必要はないんだから』

『私は会社も辞めたし、あなたとも別れることにした。これからは、あなたの好きな人と一緒にいればいい』

『これからはもう、私たちはお互い何の関係もない他人よ。永遠にさようなら』

 送信ボタンをタップした直後から、健からのメッセージが滝のように届き、スマートフォンの画面がせわしなく点滅し始めた。

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