第4章

 私はそのメッセージを開くことはせず、ただスマートフォンの電源を切った。

 スマホをバッグに放り込み、搭乗口へと歩き出した。

【健視点】

 病院の外に停めた車の中で、健は震える手で玲奈の番号に発信した。

 胸が締め付けられる。

『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません――』

 健は助手席にスマホを投げ捨てた。だが、すぐにまた掴み取る。

 無理やり深呼吸をして心を落ち着かせると、鈴木の連絡先を探し出した。

「社長?」コール音二回で鈴木が電話に出た。

「鈴木、神谷玲奈を探せ。今すぐだ」

「社長、いったい――」

「質問はいい!」健は声を荒げた。

「クレジットカードの履歴を調べろ。スマホの位置情報もだ。アクセスできるすべてのデータベースを徹底的に洗え!」

「十分以内に居場所を特定しろ!」

 一瞬の沈黙の後、返事があった。

「はい、承知いたしました。ただちに」

 健は通話を切り、運転席の背もたれにどっと寄りかかった。

 スマホの画面から目が離せない。一秒一秒が、途方もなく長く感じられた。

 もう一度玲奈に電話をかける。まだ電源は切れたままだ。

 彼女はただ怒っているだけだ。すぐに電話に出るはずだ。

 四分が経過した。五分。そして六分。

 ついにスマホが鳴った。健は弾かれたようにそれをひったくる。

「鈴木! 見つけたか!?」

「社長、わかりました」

 健の心臓が止まりそうになる。

「何がわかった?」

「神谷玲奈は、M区行きのフライトを予約していました。出発時刻は本日の午後二時半です」

「二時半だと? 今は何時だ?」

「三時半です」

 嘘だ。

 健は息を呑んだ。呼吸ができない。

 スマホが手から滑り落ちそうになる。

「飛行機は……」か細い、かすれ声しか出なかった。

「離陸したのか?」

 鈴木の沈黙が、何よりの答えだった。

「定刻通り離陸いたしました。……申し訳ありません」

 健は通話を切った。運転席で凍りついたように固まり、虚空を見つめる。

 次の瞬間、キーを回してエンジンをかけ、アクセルをベタ踏みした。

 午後四時五分、タイヤを軋ませながら、健の車は空港の駐車場に滑り込んだ。

 無意味なことくらい分かっていた。飛行機はもう一時間以上も前に空へ飛び立っている。それでも、自分を止められなかった。

 遅延しているかもしれない。フライトに乗り遅れたかもしれない。気が変わったかもしれない。

 旅行者やスーツケースを押しのけながら、ターミナルの中を全力で走った。

 搭乗口にたどり着いた時、そこには誰もいなかった。ただ、誰も座っていない椅子が並び、搭乗ゲートは固く閉ざされているだけだった。

 健は肩で息をしながら、その場に立ち尽くした。静寂が、物理的な重さとなって彼にのしかかる。

 彼女は、本当にいなくなってしまったのだ。

 ポケットの中のスマホがやけに重く感じられる。それを取り出し、もう一度だけ彼女に電話をかけた。

『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか……』

 健は目を閉じた。

 彼女はただ取り乱しているだけだ。俺を懲らしめようとしているんだ。M区に着いて、思い描いていたものと違うと分かれば、きっと戻ってくる。電話をかけてくるはずだ。自分の過剰反応だったと気づくはずだ。

『俺たちは五年間も一緒にいたんだ。彼女は俺を愛している。こんな風に去っていくわけがない』祈るように頭の中でその言葉を繰り返し、自分に言い聞かせるように頷いた。

 健は邸宅の車寄せに車を停めた。

 玄関に立ち、自分の家だというのに、どこへ向かえばいいのか急に分からなくなった。

「玲奈?」彼の声が壁に虚しく反響する。

 リビング、ダイニング、キッチンと歩き回る。すべてが今朝出かけた時のままだった。何の生活感もない。

 健はゆっくりと階段を上った。

 寝室のドアを押し開ける。

 ベッドには皺一つなく、完璧に整えられていた。

 玲奈が使っていた側のベッドに向かう。彼女のナイトテーブル。

 引き出しが完全に閉まりきっていなかった。木と木の間に、わずかな隙間が見える。

 健はそれを引き開けた。

 息を呑む。

 引き出しの中は、ジュエリーボックスで溢れていた。色も大きさも様々なベルベットのケースが、整然と並べられている。

 その一つを手に取り、開けてみる。中ではダイヤモンドのブレスレットが輝いていた。一度も身につけられた形跡がない。

 別の箱を開ける。

 彼がこれまでに贈ったジュエリーのすべてがそこにあった。どれも新品同様で、手つかずのまま。

 彼女は一度も、これらを身につけてなどいなかったのだ。

 箱を元に戻す健の手は小刻みに震えていた。

 なぜ、一度も気づかなかった?

 数年前の記憶が脳裏をよぎる。玲奈の首元には、いつもシンプルなシルバーのチェーンが輝いていた。彼女が自分で買った安物だ。彼女はそれを、毎日欠かさず身につけていた。

 それなのに、こんな高価な贈り物ばかり……。

 彼女はこんなもの、少しも好きじゃなかった。欲しがってなどいなかったのだ。

 そして俺は、それにすら気づかなかった。

 健はベッドの端に崩れ落ち、頭を抱え込んだ。

 だが、次の瞬間には勢いよく立ち上がった。彼女は「辞職した」と言っていた。

 しかし、そんなことはあり得ない。人事の中村が、俺の承認なしに退職手続きを進めるはずがない。

 健は車のキーを掴み、階段を駆け下りた。

 午後六時、彼は柴田エンタープライズのオフィスに飛び込んだ。

 オフィスにはほとんど誰の姿もない。だが、人事部にある中村のデスクにはまだ明かりが点いていた。

 健はノックもせず、ドアを力任せに押し開けた。

 中村が椅子から飛び上がる。

「柴田様!」

「神谷玲奈の退職についてだ」健は鋭い声で言った。

「なぜ俺に報告がなかった?」

 中村の顔から血の気が引く。

「社長、あの……ご自身でサインをなさいました」

「何だと?」

 中村は慌ててキャビネットに向かい、震える手で一つのファイルを取り出した。

 そして、一枚の書類を彼に差し出す。

 健はそれをひったくった。視線を署名欄へと走らせる。

 そこには、彼自身のサインがあった。乱筆だが、間違いなく彼自身の筆跡だ。

『柴田健』

 嘘だ。いつ俺はこんな……。

 昨日の午後。社長室。結衣が俺の椅子に座り、契約について尋ねてきた時のことだ。

 玲奈が入ってきて、署名が必要な書類を渡してきた。

 中身を確認しようとしたその時、結衣が小さな声を上げた。

 俺はすぐに結衣の方を向き、書類を見もせずにサインした。まともに目を通しすらしていなかった。

 健は、手に持った退職届をただ見つめた。

 すべてを投げ捨ててしまった、あの瞬間。

 そのことにも、俺は全く気づいていなかったのだ。

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