第1章
真実を知ったその瞬間、私の世界は完全に停止した。
次に目を開けたとき、私は病院のベッドの上にいた。
黒木広根――私の夫であり、何よりもビジネスの利益を優先させてきたあの男が、数百億もの商談を放り出し、夜通し駆けて戻ってきたのだ。
彼は二日二晩、私のそばを離れなかったらしい。顔色は蒼白で、その瞳は充血して赤く染まっていた。
私が目を覚ますと、彼は私の手を力強く握りしめた。
「紗織……本当に、心配させないでくれ。死ぬかと思った」
彼の声は震えていた。
以前なら、その姿に心を打たれていただろう。
だが今は、その深情けな瞳を見つめ返しても、ただ背筋が凍るような悪寒を感じるだけだった。
彼は粥を匙ですくい、慎重に私の口元へと運ぶ。
「医者が言っていたよ。派手に転んだせいで内臓を傷めていると」
彼は心底心配そうに言いつける。
「当分は消化にいいものしか駄目だそうだ」
彼は真実を知らない。
私がただの不注意で階段から落ちたと思っている。
あの冷たい階段の下で、私が流産したことなど知る由もない。
私たちが三年もの間待ち望んだ子供は、一灘の血だまりへと変わってしまったのだ。
七日前、彼は海外で商談があると言っていた。
だが実際には、彼はここ東京にずっと留まり、松島莉娜と双子の隠し子たちに寄り添っていたのだ。
彼が誰かの良き夫、良き父親を演じていたその数日間。私は莉娜から送りつけられたDNA鑑定書を見て呆然とし、階段を踏み外し、たった一人で流産の激痛に耐えていた。
世間が仰ぐ広根は完璧無傷な男だ。まさか彼が別の女と丸二年も連れ添い、あまつさえ双子まで設けていたなど、誰が信じるだろう。
声もなく涙が溢れ出した。
広根は私を抱き寄せ、低く優しい声で囁く。
「どうした? 傷が痛むのか? それとも誰かが君を不快にさせたのか? 言ってくれ、私が始末をつける」
彼は私の体調が悪いだけだと思っている。その瞳に浮かぶ焦燥に、偽りはなさそうだった。
その時、微かな匂いが鼻腔をくすぐった。
それは松島莉娜が愛用する高価な香水の香りであり、乳児用粉ミルク特有の甘ったるい匂いと混じり合っていた。
胃の中で何かが激しく逆流する。
私は彼を突き飛ばし、ベッドの端に身を乗り出して激しくえずいた。
広根は重度の潔癖症だ。普段なら服の裾に埃がついただけでも耐えられない男だ。
けれど今、彼は一切の迷いなく駆け寄ってきた。
片手で私の髪を束ねて汚れを防ぎ、もう片方の手でティッシュを取り出し口元を拭ってくれる。
冷たい床に膝をつき、背中をさすりながら、彼は優しく言った。
「もう大丈夫だ。私がついている」
その優しさが、私を再び壊そうとしていた。
あの一瞬、彼は紛れもなく私が愛した「あの人」だったからだ。
一生守り抜くと誓ってくれた、あの人だった。
心が揺らいだ。
許してしまいそうになった。
自分を説得しかけたのだ。彼が松島莉娜と別れてくれるなら、過去に戻れるのではないかと。流産の真実を告げ、失われた子供を共に悼み、世界がまだ崩壊していないふりをすることもできるのではないか、と。
私は口を開き、震える声で言った。
「広根、実は私――」
彼の携帯が鳴った。
画面を一瞥し、彼の表情がわずかに変わる。
「下で会計を済ませてくる」
彼は私の額にキスをし、足早に立ち去った。
「すぐに戻るよ」
一時間後、松島莉娜からメッセージが届いた。
写真の中の広根は双子を抱き、慈愛に満ちた父親の笑顔を浮かべていた。
添えられた言葉はたった一行。
『自分を騙すのはやめて。私たちこそが、本当の四人家族なのよ』
私は携帯の画面を消した。
心に残っていた最後の灯火が、ふつりと消え失せた。
退院後、私は自宅には戻らず、田中由美のもとへ向かった。
彼女は私の唯一の親友だ。
「手を貸して」
私は彼女を見つめ、決然と言い放つ。
「車の転落事故を偽装したいの。崖から落ちて死んだことにするわ」
由美は恐怖に目を見開いたが、私は無表情を貫いた。
広根のことは熟知している。独占欲の塊のような彼が、生きて私を逃がすはずがない。
完全に逃げ切るためには、未来の生活を守るためには、私は一度死ななければならないのだ。
その夜、私は荷物をまとめるために家に戻った。
宝石も、衣服も持ち出さない。
クローゼットの奥から、埃を被った木箱を引っ張り出した。
中にはかつて遠距離恋愛をしていた頃に交わした、数百通ものラブレターが入っている。
暖炉の前に座り、それを一通ずつ火の中へとくべていく。
紙がめくれ上がり、黒く焦げ、かつての誓いが灰へと変わる。
彼への愛と同じように、跡形もなく消えていく。
午前零時。
携帯が震えた。
由美からのメッセージだ。
『準備は整ったわ。二日後、あなたは消えることになる』
