第1章
まただ。
午前二時。三日と続いた、胃の腑を直接掴んで捩じ上げるような不快感に、私はベッドから喘ぐように身を起こした。カーテンの隙間から差し込む光の気配は、私にとって意味をなさない。それが街灯だろうと月光だろうと、私の世界は変わらず闇に閉ざされているのだから。
『ただの食あたり』。そう自分に言い聞かせるたび、頭の奥で意地の悪い声が囁く。本当は何を恐れているのか、お前はもう分かっているはずだ、と。
ドアの傍らに立てかけた白杖を手に取り、慣れた足取りで歩数を数え始める。壁伝いに三十六歩で突き当たり、左へ折れて七十八歩。陽気なチャイムの音が、自動ドアの向こう側の世界へと私を迎え入れた。
「こんばんは、雪乃さん」
ああ、この声が好きだ。このコンビニで夜勤をしている孝介くんは、私を『目の見えない可哀想な女』として扱わない、たった一人の人だった。憐憫も、腫れ物に触るような沈黙もない。ただ、当たり前に、そこにいる人間として話しかけてくれる。
「……いくつか、欲しいものがあって」私は杖の柄を強く握りしめた。「コンドームと、アフターピルと、それから……」覚悟を決めたはずの唇が、次の言葉を紡ぐのをためらった。「……妊娠検査薬を」
彼の靴音が、コンマ数秒、ぴたりと止まった。しかしすぐに、何事もなかったかのような穏やかな調子で応じる。
「三番目の通路、左側だね。持ってくるよ」
そこには一切の詮索がなかった。彼が差し出した箱に指先が触れると、小さな声が添えられる。
「このメーカーの、精度が高いって評判だよ」
会計の時、何かがおかしかった。レジが読み上げる金額と、彼が私に告げた金額が、明らかに違う。私たちは暗黙の了解のうちに、その差額には触れなかった。言葉にしない優しさが、この世には確かにある。
店を出て「仕事場」へ戻る道は、束の間の天国から奈落への急降下だった。廊下に漂う、安物の香水と汗と絶望を混ぜ合わせた吐き気を誘う匂いが、私の帰りを歓迎するかのようにまとわりつく。隣の部屋からは、男の野卑な笑い声に、か細い嗚咽が混じって漏れ聞こえてきた。ああ、我が家だ。
自室の扉を閉め、狂ったように震える指で検査薬のパッケージを破る。記憶を頼りに説明書の指示通りに事を進め、待った。永遠にも感じられる五分だった。
結果を示す部分に、指先が二本の線の感触を捉える。間違いなく、二本。
クソ。クソ、クソ、クソ……!
呆然自失としてから、どれくらい経っただろうか。不意にドアがノックされた。機械的に服の乱れを直し、立ち上がる。むせ返るようなコロンの匂いで、相手はすぐに分かった。何かを隠すように、いつも過剰に香りを纏っている常連客だ。
再び込み上げてきた吐き気に顔をしかめた、その時だった。
「おい、どうしたんだよ。お前、まさか孕んでんじゃねえだろうな」声には、汚物を見るかのような嫌悪が滲んでいた。「傷物に金は払わねえぞ」
私が嘘を吐き出すより早く、男はテーブルの上にあった検査薬をひったくった。
「二本線……! おい、このアマ、妊娠してやがるぞ!」
建物中に響き渡るような怒声だった。
「よくも俺を騙そうとしたな、この汚ねえ女が!」
言葉の刃が、次々と頬を打ち据えるようだった。男は私がどれほど不潔で、彼を欺こうとした卑劣な女であるかを喚き散らし続けた。
その時、部屋のドアが蹴破られるような轟音と共に、乱暴に開け放たれた。店のオーナーだ。普段から私たちの生殺与奪の権を握っている、あの巨漢の中年男。その息遣いだけで、本気で人を殺しかねないほどの怒りが伝わってくる。
「妊娠だと?」地を這うような声が響いた。「俺の店で孕んだだと? この商売に泥を塗る気か、てめえ!」
私は膝から崩れ落ち、床に這いつくばって懇願した。
「お願いします、少しだけ時間をください……! なんとか、なんとかしますから……!」
「荷物まとめてとっとと失せろ! 今すぐだ!」
男は私のなけなしの私物を、部屋の隅から投げつけ始めた。
「役立たずを飼っておくほど、うちは甘くねえんだよ!」
飛んでくる物に身をすくめ、床にうずくまっていた、その時。
すべてが、唐突に静まり返った。
足音。
違う。いつもの誰の足音とも違う。ゆっくりと、落ち着き払っていて、それでいてその場にいる全員の動きを凍りつかせるような、絶対的な威圧感を伴っている。安物のリノリウムの床を鳴らす、硬質な革靴の音。
「何事だ」
その声には聞き覚えがあった。ほとんど顔を見せない、謎めいた常連客の一人。いつも何かに追われるようにせわしなく、誰かに見張られているかのように絶えず周囲を警戒していた男。
「あ……これは、その……彼女が妊娠しまして」オーナーの声が、途端に媚びへつらうような色を帯びた。「たった今、こいつの始末をつけていたところでさァ」
奇妙な沈黙が落ちる。男の視線が、値踏みするように私に注がれているのが肌で分かった。
「妊娠」
繰り返された言葉には、感情の読めない、けれど肌が粟立つような響きがあった。
「結構だ。彼女は私が引き取る」








