第2章

「彼女は私が引き取る」

その一言は、部屋の汚れた空気を震わせる爆弾のように響き渡った。オーナーが息を呑む音、あの下卑た客が言葉を失う気配さえも、手に取るように分かる。心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打ち、破裂してしまうのではないかと本気で思った。

「か、彼女を買う、と……?」オーナーの声が上擦った。「つまり、その……」

「ああ。彼女と、その腹の中にいるものもろともだ。言い値で構わん」

男の声は不気味なほどに平坦で、まるで市場で魚でも値切るかのような気軽さだった。

『嘘よ……こんなこと、ありえない』

オーナーが何かを言い返そうとした、まさにその時。廊下から、新たな足音が響いてきた。二人分。一人は、まるで獲物を狙う獣のように、抜き足差し足で気配を殺している。

「どうやら、ちょうど間に合ったようだな」

またしても聞き覚えのある声。別の常連客だ。言葉の端々から金の匂いがするような、いつも儲け話ばかりに目を光らせている男。

「俺は倍払う」

最初に来た男――橘と呼ばれた政治家は、せせら笑うように息を漏らした。

「金田、お前も一枚噛むつもりか」

「ビジネスの話ですよ、橘議員。完璧な家庭、という商品に興味があるのは、あなただけではない」

『最悪だわ……知り合い同士なのね。どんどん泥沼に嵌まっていく』

その時、場の空気を引き裂くように、新たな闖入者が現れた。走り寄る足音、荒い息遣い。酔っているのか、あるいは何かに追い詰められているのか、廊下をよろめきながら駆けてくる。

「待て! 待ってくれ!」

一番聞きたくなかった声。金に窮し、常に酒に溺れ、事が思い通りに進まないとすぐに暴力を振るう悪癖を持つ男。

「俺も彼女を買う! 腹の中のガキごと……俺が欲しいんだ!」

私の心臓の鼓動だけが、死んだように静まり返った部屋に響き渡る。三人の男が、まるで私が戦利品であるかのように、じっとりと粘つく視線を向けている。捕食者に囲まれた獲物の気分で、私は壁際の闇へとさらに身を縮こませた。

「皆様、皆様!」オーナーの声は、欲望で震えていた。「皆様お望みとあらば、ここはひとつ、公平に参りましょう。ちょっとした競争と洒落込みませんか」

目を閉じても、彼が両手を擦り合わせている光景が目に浮かぶようだった。強欲な守銭奴にとっての、クリスマスが到来したのだ。

「百万」と橘が口火を切った。

「二百万」金田がすぐさま上乗せする。

「お、俺は二百五十万出す! それに、うちの家族信託も!」酔った男が必死に叫んだ。

『私と、この子に値段がつけられていく。まるで家畜の競りみたいに』

叫びたかった。逃げ出したかった。けれど、体は氷漬けにされたように動かない。私にできるのは、彼らが私という商品を巡って値を吊り上げていくのを、ただ黙って聞いていることだけだった。

「私は市議会議員候補だ」橘の声が、さらに冷たさを増した。「彼女に法的な地位を、その子にまっとうな未来を与えられる。そして……」彼は一呼吸置いた。「非協力的な人間を社会的に『消す』力も持っている」

「現金で五百万。それに家を一軒つけよう」金田が言い返す。「あんたの脅しより、俺の提案の方がよほど現実的だろう。それに橘さん、あんたの対立候補がこの『ささやかなお買い物』を知ったら、どうなると思うね?」

「てめえら、ふざけんじゃねえ!」酔った男が完全に逆上した。「こいつに最初に目ぇつけたのは俺だ! 金があるからって好き勝手させねえぞ……てめえらに取られるくれえなら、この場所ごと燃やしてやる!」

ガチャリ、と鈍い金属音がした。

『まずい……武器を持ってる』

「そこまでにしろ」橘の声は、絶対零度の氷塊と化した。「金田、俺と事を構える気か? 電話一本で、明日にはお前の会社に監査が入ることになるぞ」彼の矛先が、今度はオーナーへと向けられる。「それから、お前。あんたのこのちっぽけな店が、俺の選挙区でいつまで営業できると思う?」

金田は数秒黙り込んだ後、意外にもからからと笑い出した。

「わかったよ、橘さん。あんたの勝ちだ。どうやら、金より権力の方が一枚上手のようだ」

「賢明な判断だ」

満足げなその声に、私は背筋が凍るのを感じた。

酔った男が何かを喚き返そうとしたが、橘は冷たい視線を投げかけただけだった。

「去れ。私がまだ寛大なうちにな」

男は汚い言葉を吐き捨て、悪態をつきながらよろよろと去っていった。だが、これで終わりではない。そんな予感が、腹の底で渦巻いていた。

『私の運命は決まった。私は商品で、この子は付属品。ただそれだけ』

私はそっと腹に手を当て、まだ見ぬ我が子に語りかけた。

『ごめんね、赤ちゃん。ママ、あなたを守れなかった……』

「では、話はまとまったな」

橘はそう言うと、私の方へ歩み寄ってきた。

「雪乃、だったか。私と来い。今日からお前は、私の未来のために奉仕するんだ」

彼は私の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。

「私には完璧な家庭像が必要だ。お前の子は私の跡継ぎとなり、お前は私の妻となる」

その背後で、金田が深いため息をついた。

「橘さん、自分が何に手を出したか、分かってるといいがな」

誰かの手に支えられ、ゼリーのように力の入らない足で立ち上がる。廊下を歩きながら、橘が携帯電話で誰かに指示を出す声が聞こえた。

「メディアの準備をさせろ。明日は写真撮影だ」

『一つの地獄から、別の地獄へ売られただけ。今度の地獄は、政治的なショーの舞台付き』

高級車へと向かう道すがら、背後にまとわりつく気配を感じる。酔った男は、まだどこかに潜んでいる。そして、金田も諦めてはいない。何かが、そう私に告げていた。

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