第3章

腰の下にある革張りのシートは、有り余る富を雄弁に物語っていた。本物の金。私のような人間を瞬き一つせず買い取れる、そういう種類の金だ。車内はしんと静まり返り、己の心臓の鼓動が耳の奥で反響するのさえ聞こえる。喧騒こそが日常だった私にとって、この静寂はかえって異様だった。

橘誠一郎は、私の隣に座っていた。彼の纏う高価なコロンの香りが、何か別のもの――おそらくは権力とでも呼ぶべき匂い――と混じり合うほど、その距離は近い。それは、磨き上げられた鋼のような、鋭く冷たい金属の匂いがした。

「君は実に幸運だよ、雪乃君」

彼の声が密閉された空間に響き渡り、その有無を言わせぬ響きに肌が粟立つ。

「今日から君は、この橘誠一郎の未来の妻となるんだ」

『幸運』、ね。笑わせる。まるで、奈落の底で偶然ダイヤを拾ったとでも言いたげな口ぶりだ。

車のドアが開いた瞬間、音の洪水が私を打ちのめした。音楽、喧騒、そして無数のカメラが発する電子的な駆動音。尋常ではない人の数に、私はこれから始まる出来事が決して良いものではないと悟った。

「笑え」

彼の手が私の腕を鷲掴みにする。血が止まるかと思うほどの力だった。

「マスコミがいる。私の子を身ごもり、愛し合って結婚すると、連中にそう言うんだ」

『愛』。その言葉が、口の中で毒のように苦く広がった。

視力はとうに失われているというのに、カメラのフラッシュが小さな爆発のように顔面で炸裂するのが分かる。記者たちの質問が、機関銃の弾丸のように私に浴びせかけられた。

「橘議員、こちらが婚約者の方ですか!」

「お子さんのご予定は?」

「お二人はいつからのお付き合いで?」

彼の腕が私の腰に回り、息もできないほど強く抱き寄せられる。ある記者が私の気持ちを尋ねた時、彼は身を屈め、私の耳元で囁いた。

「余計なことを言えばどうなるか……分かるな?」

「わ……私は、とても幸せです」

声は震えていたが、嘘は滑らかに唇からこぼれ落ちた。

茶番劇が終わった後、私は彼が言うところの「新しい家」へと連れて行かれた。部屋は途方もなく広い。自分の足音が反響するだけで、その広さが知れた。指先が触れるのは、絹のカーテンや、本物の木材を使った家具。庶民が一年かけて稼ぐ金よりも高価なものばかりだろう。しかし、窓に触れると、そこには厳重な鍵がかけられていた。そしてドアの外からは、複数の足音が絶えず行き来する気配がした。

「ここが君の新しい城だ」と橘は言った。「望むものは何でも手に入る。だが、ここから一歩も出ることは許さん」

以前の私の部屋よりも広いであろうベッドの端に腰を下ろし、そっと腹に触れる。この場所は、私が今まで住んだどの場所よりも快適なはずだった。それなのに、どういうわけか、これまで以上に深い絶望を感じていた。少なくともあの汚い部屋では、自分の意思でドアを開ける自由があった。

『黄金の鳥籠も、鳥籠には違いない』

三日目の夜、寝室のドアが静かに開く音がした。足音は軽く、慎重だ。橘や、彼の雇った無骨な警備員たちのものではない。

「怖がらないで、雪乃さん」

声の主は、あの競りにいた金田だった。

「助けに来ましたよ」

彼はベッドの端に腰掛けた。橘とはまた違う、甘く洗練された香水の匂いが鼻をかすめる。

「橘は勝った気でいるでしょうが、ゲームはまだ始まったばかりです」彼は静かに言った。「あなたに、提案がある」

『希望……? それとも、また別の罠……?』

「簡単な取引です。彼との結婚を拒否する。もっと言えば、この政治ショーを台無しにし、彼の顔に泥を塗るのです。成功報酬は、現金で一億円。赤ん坊を連れてどこへでも行き、新しい人生を始められる」

「なぜ、私を……?」

「あなたを助けているのではありません。これは政治です」彼の身も蓋もない物言いは、いっそ清々しかった。「この選挙、橘に勝たせるわけにはいかないのです。よく考えてみてください。また来ます」

翌日、監視付きの「散歩」――実質、動物園の檻の中を歩かされているだけだ――をしていると、高い塀の向こうから誰かが私の名前を呼ぶのが聞こえた。

「雪乃!」

あの酔った男の声だ。怒りと絶望でかすれている。

「そんな壁の裏に隠れて、安全だとでも思ってんのか!」

全身の血の気が引いた。

「そのガキは俺の子だ! あの偽善者野郎に、俺のものを渡してたまるか!」

警備員たちが塀に向かって駆けていく音がしたが、彼らが到着する頃には、男の気配は消えていた。これが、ほんの序章に過ぎないことを私は悟った。

「来週、我々は結婚する」

夕食の席で、橘は天気の話でもするかのようにそう告げた。

「マスコミの手配は済んでいる。君はただ、『はい、誓います』と言えばいい」

テーブルの下で、私は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、かろうじて私をこの場に繋ぎ止めていた。

「私は明日、日帰りで出張だ。これが君が一人で過ごす最後の夜になる。楽しむといい。式の後は、選挙運動における妻としての役割を、存分に果たしてもらうからな」

『選挙運動における妻としての役割』。まるで私が、彼の計画を達成するための、ただの駒であるかのように。

橘が去った翌日の夜。ベッドに横たわっていると、部屋の外で争う声が聞こえた。怒声、短い悲鳴、そして……不気味な静寂。警備員たちの気配が、ぷっつりと途絶えた。

私はベッドの隅で体を丸め、心臓を鷲掴みにされたように息を詰める。その時、私の部屋のドアが、内側に向かって爆発するように破壊された。

「見つけたぞ!」

男の声は、暴力とアルコールに侵され、完全に正気を失っていた。

「あの狸にも、守りたいもんはあったようだな!」

すぐに匂いがした。酒と、血と、そして錆びた鉄の匂い。彼は、武器を持っている。

「さあ、おうちに帰ろうぜ」彼は私の腕を乱暴に掴んだ。「弁護士にはもう話を通してある。このガキさえいりゃあ、俺は信託の金を取り戻せるんだ」

彼は私の耳元に顔を寄せた。その息は熱く、吐き気を催すほどだった。

「それに、橘がすべてを失う様を見るのは……さぞ、愉快だろうなあ?」

私は部屋から引きずり出され、廊下で、ぐったりとした肉塊のようなものにつまずいた。警備員たちが死んでいるのか、意識を失っているだけなのかは分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。

『私は今、人生で最も危険な状況にいる』

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