第4章 スパイ

島の診療所の地下室は、臨時の死体安置所と化していた。黄ばんだ裸電球が頭上で揺れ、湿った空気は消毒液の匂いで満ちている。

夏川圭一はゴム手袋をはめ、必死に呼吸を整えようとした。解剖台に横たわる紬の体は、雪のように蒼白だった。傍らには島の医師である小林先生が老眼鏡をかけ、厳粛な面持ちで立っている。

「圭一君、顔色がひどいぞ。少し休んだらどうだ」

小林先生が夏川の異変に気づき、気遣わしげに声をかけた。

夏川は深く息を吸った。

「大丈夫です。これが、俺の仕事ですから」

検分し、記録する。夏川は仕事に没頭することで、解剖台に横たわるのが自分の妻であるという事実から目を逸らそうとしていた。

紬の腹部を調べていた小林先生の手が、ふと止まる。

老眼鏡を押し上げ、眉間に深い皺を刻みながら、注意深くそこを観察している。

「……ここに、妊娠線があるようだ」

彼の声は囁くようだったが、静まり返った地下室ではやけに鮮明に響いた。その一言は、まるで落雷のように夏川を打ちのめした。手からメスが滑り落ちそうになり、世界がぐらりと反転する感覚に襲われる。

「……なんですって?」

夏川の声は掠れ、ほとんど音にならなかった。

小林先生はさらに検分を進め、その表情をいっそう険しくさせる。

「ああ、間違いない。妊娠十一週から十三週といったところだ。胎児は母体の死亡により、すでに……」

その先の言葉は、夏川の耳には届かなかった。頭の中が真っ白に染まっていく。

――紬が、妊娠?俺たちの、子供?どうして、一言も教えてくれなかったんだ?

記憶が潮のように押し寄せる。三ヶ月前、紬は体調が優れないと仄めかし、病院で検査を受けたいと言っていた。当時、任務に追われていた夏川は、ただ休んでいろとぞんざいにあしらっただけだった。

――もし……もしあの時、もう少し気遣ってやれていれば……。

「圭一君、紬君が妊娠していたことを知っていたのかね?」

小林先生の声が、夏川を現実へと引き戻した。

夏川は力なく首を振る。声が、うまく出ない。

「いえ……知りませんでした……俺たちは、もうずっと……」

それ以上、言葉を続けられなかった。

紬は一人で妊娠の喜びと不安を抱えていたというのに、俺はそれに全く気づかなかった。きっと、この吉報を伝えるのに相応しい時を待っていたのだろう。それなのに俺は、彼女にどんな態度を返した?

冷淡さ、無関心、そして、厭わしささえも。

夏川は、紬が一人でつわりに耐える姿を、そっと膨らみ始めたお腹を慈しむように撫でる姿を、鏡の前で自分の体の変化を見つめる姿を想像し……胸が張り裂けそうになった。

「検分を、続けます」

自分に言い聞かせるように呟いたが、その声はひどく震えていた。

遺体に残された数々の痕跡は、紬が生前、激しい抵抗を試みたことを物語っていた。腹の中の子を守るために、必死に抗ったのだろうか。

紬の上着の内ポケットから、夏川は一枚のくしゃくしゃになった紙片を見つけた。広げてみると、それは産婦人科の予約票だった。夏川はその紙を凝視し、両手の震えが止まらなかった。

「君を深く愛していたんだろう。サプライズにしたかったんだな」

小林先生が、同情的な眼差しを夏川に向ける。

夏川は涙をぐっとこらえ、予約票を慎重に折り畳むと、証拠品袋に収めた。

紬の腕時計は、十一時五十二分で止まっていた。風防にはひびが入っているが、針ははっきりと見て取れる。

死亡推定時刻は昨夜二十三時五十分から零時十分の間。夏川は記録ノートにその一行を書き記した。一文字一文字が、まるで血で綴られているかのようだった。

午後四時、診療所の外には島民たちが集まり、その数は時間を追うごとに増えていた。彼らは捜査の進展を求めており、その声には次第に苛立ちが混じり始める。

「紬ちゃんみたいな良い子が、どうしてこんな目に遭うんだい」

松下のお婆さんが泣きながら言った。

「圭一、お前は昨日の夜、一体どこにいたんだ?なんで彼女を探しに行かなかった!」

若い漁師が、怒りを込めて詰問する。

夏川は診療所から出てきたが、それらの非難に対して一言も発さなかった。

やがて村長が場を収めに出る。

「皆、もう解散してくれ。専門の方々に捜査を続けてもらおうじゃないか」

人だかりが徐々に散っていく中、美香だけがその場に残っていた。

「圭一さん、とてもお疲れのようですね。何かお手伝いできることはありますか?」

彼女の声には、どこか肌を粟立たせるような甘ったるさがまとわりついている。

夏川は事務的に答えた。

「ありがとう。だが、大丈夫だ」

美香は尋ねる。

「紬さん、昨夜はどうして漁港へ?普段、あんな夜更けに出歩くことなんて滅多にないのに」

「台風が心配で、漁網の様子を見に行ったのかもしれない」

「最近のお二人のご関係は?島の人たちが噂するには……」

美香はさらに探りを入れてくる。

夏川は警戒するように彼女を見た。

「何が言いたい?」

美香は心配そうなふりをした。

「いえ、ただあなたのことが心配で。奥様を亡くされて、お辛いでしょうから」

彼女の眼差しには、言葉にできない複雑な色が宿っており、夏川を不安にさせた。

夕方六時半、田中警部補が夏川を村外れの廃灯台に呼び出した。灯台の下は薄暗く湿っており、彼の表情はいつも以上に険しい。

「夏川、状況はかなり複雑だ」

彼は開口一番に言った。

「どういうことです?」

「この島に、我々の組織を嗅ぎ回る『鼠』がいると見ている。紬君の死は、それと関係があるかもしれん」

夏川は衝撃を受けて彼を見た。

「鼠……?なぜ紬を殺す必要が?彼女はただの島民です」

田中は分析した。

「彼女が偶然何かを知ってしまったか、あるいは……誰かが彼女を利用して、お前を陥れようとしているかだ」

「俺の正体を知る者がいると?」

夏川は背筋に冷たいものを感じた。

田中は頷いた。

「その可能性が高い。だからお前は今、非常に危険な状態にある。くれぐれも注意しろ」

夏川は怒りに拳を固く握りしめた。

「誰であろうと、必ず代償を払わせてやる」

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