第2章
エララ視点
魔法の鞭が、空を裂いて飛んできた。
「――っ!」
反射的に腹をかばう。だが鞭は肩を打ち抜き、皮膚がぱっくりと裂けた。刻まれたルーンが傷口を焼き、じゅっと嫌な匂いが立つ。
「お願い……ライラ……この子は、無関係なの……」
「無関係?」
ライラは鼻で笑った。
「あんたが私の兄さんを殺したとき、『無関係』なんて言葉、思い出した?」
二撃目が背中に叩きつけられる。視界が白く弾け、意識が遠のきかけた。
「私、ケイルを殺してない……」涙まじりに絞り出す。
「黙れ!」
腹へ蹴りが飛んだ。
とっさに腕で受ける。肘が石台にぶつかり、骨が軋むような痛みが走った。折れた――そう思った瞬間、さらに衝撃。
「私が知らないとでも?」ライラは膝を突き上げ、私の脇腹を抉るように押し込んだ。
「ケイルを殺して、ドレイヴンを誑かして、子どもまで孕んで――王国ごと奪う気でしょう!」
足先が、私の指を踏みつけた。
細いヒールが、ゆっくりと骨を潰しにくる。
「あっ……やめて……!」
「小さい頃から、ドレイヴンは私だけを見てた」
声が不気味に甘くなる。瞳の奥で、狂気がちらついた。
「兄妹仲だって良かった。何でも私に話した。秘密も、悩みも、最初に思い出すのは私。……それなのに、あんたが来てから全部おかしくなった!」
さらに踏み込まれ、指骨がかちり、と乾いた音を立てた。
「どこの馬の骨かも分からないクズが、平然とあの人のベッドに這い上がって……! それで、あの老いぼれが、ドレイヴンにあんたを娶れって押しつけた!」
その瞬間、陣痛が襲ってきた。さっきより強い。腹の中で、子どもが苦しむように身をよじるのが分かる。
「そのうえ、あの人の子まで孕んで!」
ライラは足を上げ――私の腹へ、容赦なく叩き込んだ。
「ドレイヴンは私のもの! 私だけのものなの!」
私は腹を抱えて守り、よろけて背中を壁に打ちつけた。背骨が痺れるように痛む。
「ライラ……お願い……」声が、かすれる。
「私、出ていく……この子を連れて、王宮から――」
「出ていく?」
爆ぜるような声。髪を掴まれ、壁へ叩きつけられた。
「ドレイヴンを奪って、私の家を壊しておいて、今さら逃げるって? 都合よく『はいさよなら』で終わると思ってるの!?」
視界が滲む。額から、温かいものがつうっと流れ落ちた。
手が離れ、私は床へ崩れ落ちる。ライラは壁の魔法陣へ向かい、さらに魔力を流し込んだ。
パーガトリーの温度が、急激に跳ね上がる。空気が揺らぎ、景色が歪む。
「うん、これでいい」
ライラは荒い息のまま髪を整えた。
「ドレイヴンにこんな姿、見せられないもの。あの人、あんたに甘すぎる……それが、むかつくのよね」
彼女は扉へ歩き、勢いよく開け放つ。
「セロン!」
「はい、嬢様」
「こいつを縛り上げて。手足、きっちり。逃げる隙なんて一つも与えないで」
「かしこまりました」
ライラは最後に私へ視線を投げ、唇を舐めた。
「せいぜい楽しんで。セラフィナが産んだら、あんたはもう用無しだから」
扉が、どん、と重く閉じられた。
血の海に横たわる。全身が痛い。起き上がろうとしても、指一本動かせない。
このまま――死ぬの?
違う……私の子……誰か、助けて……
そのとき、扉がもう一度開いた。
若い衛兵が、縄を手に入ってくる。私の惨状を見て、足が止まった。
ガレス。
二か月前、倉庫で薬草を盗んでいるところを私が見つけた。彼は膝をつき、妹が重い病で、薬を買う金がないと泣いて懇願した。私は黙って見逃し、こっそり金貨の袋まで渡した。
「奥様……」
近づく声が震えている。
「ガレス……」私は掠れ声で呼んだ。
彼は片膝をつき、傷を確かめるふりをしながら声を落とす。
「……あの連中、ほんとに……」
「私……もう、もたない……」喉が詰まり、言葉がちぎれた。
ガレスは歯を食いしばる。迷いの色が瞳をよぎり、扉の向こうを一度うかがってから、さらに小さく囁いた。
「奥様、俺に……何を?」
胸の奥で、消えかけた火が灯る。
「お願い……城下にいる人を……探して」私は必死に住所を告げた。
「すぐに……来てって……」
涙がこぼれる。あの人が来てくれるなら……私を許してくれるなら……
ガレスは数秒だけ逡巡し、短く頷いた。
「ガレス!」扉の外から荒い声が飛ぶ。
「縛れたのか! なにチンタラしてる!」
ガレスは跳ねるように立ち上がり、縄を私の手首にわざと緩く回した。
「今やってます!」
足音が近づく。
ガレスは素早く身を屈め、耳元に息をかけるように言った。
「待ってて」
そして慌ただしく出ていった。
扉が再び、鍵の音とともに閉まる。
時間だけが過ぎる。
高熱が皮膚を炙り、息を吸うたび喉が焼ける。薬剤の冷えが、逆に内側から広がっていった。
胎動が、弱くなっていく。
「……ねえ、お願い……」緩い縄をほどき、腹を抱きしめる。
「ママ、諦めない……」
でも分かっている。
私、もうすぐ死ぬ。
意識が薄れ、竜火の光が視界の中でぐにゃりと歪む。
――終わりだ、そう思った瞬間。
バンッ!
扉が、そっと開いた。
私は必死にまぶたを持ち上げる。
ガレスが飛び込んできた。頬に青あざ、口端に血。鎧にも赤黒い染みがこびりついている。
「奥様!」彼は駆け寄り、私の肩を抱えた。
「急いで!」
「あなた……」信じられない。
「頼んだ人は……?」
「行きました!」ガレスは早口で言い、私を起こそうとする。
「でも、そこには誰もいなかった! 家は半年前から空き家だった!」
胸が、底へ沈む。
どうして……まさか、もう……
「でも俺、奥様が死ぬのを見てられない!」ガレスは歯を食いしばった。
「見張りは気絶させた。時間は十分もない!」
彼に支えられ、ふらつきながら廊下へ出る。歩くたび傷が裂け、視界が揺れる。
「ガレス……あなた、死ぬ……」私は息も絶え絶えに言った。
「妹を救ってくれた」彼は短く答える。
「俺は、借りがある」
廊下には誰もいない。
幾つもの通路を抜け、王宮の裏門へ走る。月光が、冷たく私たちの背を撫でた。
「もうすぐです!」ガレスが闇の中の扉を指す。
「あの壁を越えれば外に小道があって、森に――」
「……あらあら」
背後から、気だるい女の声。
私たちは、凍りついた。
こつ、こつ、とゆっくり近づく足音。
影の中からライラが現れる。指先で魔法鞭を弄びながら。その後ろにセロン、そして数人の衛兵。
首を傾げ、唇の端を残酷に吊り上げた。
「かわいいネズミが二匹。逃げ足だけは、なかなかじゃない」
