第4章
ドレイヴン視点
「……は?」
伝令石が指の間をすり抜け、硬い床に落ちて乾いた音を立てた。
「王妃陛下が……亡くなられました」セロンの声が震えている。
「出血が多すぎて……医師も、手の施しようが……」
頭の中が真っ白になり、俺は踵を返して産室を飛び出した。
「ドレイヴン!」背後でセラフィナが叫ぶ。
「どこへ行くの!」
立ち止まらない。
廊下、階段、中庭――俺は気が触れたみたいにドラゴンファイア・パーガトリーへ駆けた。
パーガトリーの鉄門は開け放たれていた。濃厚な血の匂いが、顔面にぶつかってくる。
俺は中へ飛び込んだ。世界が、止まった。
エララが血溜まりの中に横たわっていた。両腕で腹を必死に庇うように抱え、顔は紙のように白い。口元には血がこびりつき、かつて光を宿していた瞳は半分だけ開いたまま、焦点を失っている。
「……嘘だ。ありえない……」
足がもつれて、俺は転がるように膝をついた。
「エララ! 起きろ、頼む!」
抱き上げた身体は、恐ろしいほど軽い。全身に、見ているだけで吐き気がするほどの傷が刻まれていた。
「医師を呼べ!」喉が裂けるほど怒鳴る。
「今すぐだ!」
「陛下……」セロンが怯えきった顔で入ってくる。
「もう……間に合いません……」
俺は反射で、セロンの喉を掴み上げた。
「どうやって死んだ。言え」
セロンの顔が一気に紫色に染まる。
「……ラ、ライラ嬢が……王妃が逃げようとして捕まって……魔法鞭で打って……腹も……それに、遅延薬を二度目……」
「二度目だと?」
「倍量です……王妃は大出血して……止まらなくて……」絞り出すような声だった。
「助けたくても……血が……」
俺は手を放した。セロンが床に叩きつけられ、咳き込みながら転がる。
「そのクズはどこだ」俺の声は、自分でも分からないほど低かった。
「に、逃げました……陛下がお戻りになると聞いて……」
「探せ。王国じゅうひっくり返してでも連れて来い!」
セロンは這うようにして逃げていった。
俺はもう一度、エララを抱きしめる。衣服はぼろぼろで、肌には新しい痣と裂傷がいくつも走っていた。どれほど痛かっただろう。どれほど怖かっただろう。どれほど――俺を呼んだだろう。
「ごめん……ごめん……」
冷たくなった髪に顔を押しつけ、俺は初めて、声を上げて泣いた。
――
俺はエララの亡骸を寝宮へ運び、かつて二人で眠った寝台に寝かせた。毎日新しい服に着替えさせ、髪を梳く。まるで、まだ生きているかのように。
部屋には腐臭が漂いはじめた。それでも構わなかった。あんな呪われたパーガトリーに、ひとりで置いておけるものか。
「ドレイヴン……」
扉が押し開けられ、セラフィナが赤子を抱いて入ってくる。
「もう、弔ってあげないと。土に還して……このままじゃ駄目よ」
俺はエララの硬くなった手を握ったまま、振り向かない。
「王国にはあなたが必要なの」彼女が数歩近づく。
「それに、ケイルの子も……私たちで守らないと……」
「出ていけ」
「……え?」
「その子を連れて、この部屋から出ていけ」
冷たく振り向くと、セラフィナの顔色が一瞬で抜け落ちた。
「でも……私は……あなたが、私に……」
「一度もない」俺は切り捨てる。
「お前を庇ったのはケイルのためだ。――『息子』が生まれた。これで終わりだ」
「じゃあ、この一年は何だったの……? 王妃の宮に住まわせて、王室医師まで付けて……」声が震えている。
「兄への義理だ」
俺は一歩、また一歩と距離を詰める。
「ケイルの血がなければ、お前なんか見向きもしない」
セラフィナの瞳から涙が溢れた。
「……じゃあ、どうしてエララにあんなことを? 愛してたなら、どうしてあんなに苦しめたの……!」
「憎かったからだ!」
喉の奥に押し込めてきた痛みが、一気に噴き出す。
「誰も彼もが言った……ケイルを殺したのはエララだって……!」
一年前の戦が、濁流のように蘇る。
ケイルは敵の待ち伏せに遭い、伝令石で三度、俺に救援を求めた。だが俺は、エララが持ってきた茶を飲んで深く眠り込み――呼び声を、すべて聞き逃した。
目を覚ましたときには、ケイルはもう死んでいた。
王室の誰もが決めつけた。茶には薬が入っていた。外から来た女が王の寝台に入り込み、子を孕むための企みだ、と。
俺は一年間、憎しみで彼女をすり潰してきた。
「だから折檻していいって? あんなふうに?」セラフィナの声が鋭くなる。
「冷たくして、辱めて、侍女以下みたいに扱って……ドレイヴン、本当に憎いなら、どうして殺さなかったのよ」
俺は固まった。
――どうしてだ。
「認めたくないの?」セラフィナは涙を拭い、皮肉な笑みを作った。
「あなたは愛してた。最初に見た瞬間から。だけどケイルのほうが大事だった。王家の『名誉』のほうが大事だった。だからいちばん都合のいい話を信じたのよ。全部、よそ者の女が悪いって」
その言葉が、鞭みたいに胸を打った。
「エララを殺したのは、あなたの冷たさよ!」セラフィナが叫ぶ。
「あなたの態度が、みんなに『踏みつけてもいい』って思わせたの! ライラが手を出せたのは、あなたが気にも留めないって分かってたから!」
「黙れ!」俺は怒鳴った。
「消えろ……今すぐ出ていけ!」
セラフィナは赤子の泣き声を抱えたまま、逃げるように去った。
俺は寝台の脇に崩れ落ち、エララの冷たい手に額を押しつける。
「……あいつの言うとおりだ。俺が、お前を……」声が詰まる。
「もう少しだけ信じてやれたら……もう少しだけ優しくできたら……」
だが懺悔は、遅すぎた。
もう、届かない。
――
深夜。眠れない夜が当たり前になっていた。俺は宮殿を彷徨い、ほんの少しでも心が静まる場所を探していた。
御花園のほうから、押し殺した言い争いが聞こえる。
「正気なの? こんな時に私を呼び出すなんて」セラフィナの声だ。
俺は影に身を潜めた。彼女の向かいに、衛士の服を着た見知らぬ男がいる。
「ドレイヴンはもう壊れてる」男がセラフィナの手首を掴む。
「任務を進めるには今が最適だ」
任務――?
「な、何の話……分からない……」セラフィナが振りほどこうとする。
「しらばっくれるな」男が嘲る。
「ケイルがあの夜に通る経路、俺に教えたのは誰だ?」唇が歪む。「俺と寝るために、あいつの計画を全部流したんだろ」
雷に打たれたみたいに、真実が俺を貫いた。
ケイルの死が――セラフィナのせいだと?
「わ、私は……ただ行程を知りたかっただけ……」セラフィナが泣き崩れる。
「あんなことになるなんて……あなたが私を誘惑して……」
「知ってたところで何が変わる?」男は得意げに笑う。
「ケイルはもう死んだ。それに――」声を落として囁く。
「シャドークロウ帝国はお前の働きに大満足だ。アッシュウィング王国を潰すのに引き続き協力するなら、望むものは何でもくれてやる」
シャドークロウ帝国――俺たちの宿敵。
「でも、ドレイヴンはそう簡単に……」
男が鼻で笑った。
「ただの愚図だ。俺たちの野種を守るために、本物の王妃と子どもを殺したんだからな」
世界が回転した。
俺は――敵の子を守るために、愛した王妃と、俺たちの子を……自分の手で?
怒りと絶望が、火山みたいに噴き上がる。
俺は影から飛び出し、男の顔面に拳を叩き込んだ。
「この外道が!」
男は吹き飛んで地面に転がり、鼻から血を噴いた。
「ドレイヴン……!」セラフィナが蒼白になって俺を見る。
「な、何を聞いて――」
「全部だ」
俺は一歩ずつ迫る。胸の中は、憎悪で満ちていた。
「ケイルを殺したのはお前だ。子どもは、この間者の種だ」
「ち、違う……説明できる……!」セラフィナが膝をついて縋りつく。
俺は髪を掴み上げ、拳を振り下ろした。何度も、何度も。
「何を説明する。兄を売った説明か。俺の妻を殺した説明か」
「ドレイヴン……お願い、やめて……!」血に塗れた顔で泣き叫ぶ。
俺は伝令石を取り出した。
「全衛士、直ちに御花園へ集結しろ!」
ほどなくして、セロンが部下を連れて駆けつけた。
「陛下……?」
「縛れ。そして溶岩池へ投げ込め」俺は氷みたいな声で命じた。
「二人ともだ。ゆっくり焼け死なせろ」
