第6章 それ自身が選んだもの
ギブスが黒猫を抱えて連れて行っても、小沢かなはすぐには階上へ戻らなかった。
苞谷をひとつかみ所望し、掌にそっとまとめる。顔を上げ、階段を見やる。
手すりの上で、灰色の小さな影が止まっていた。
こてん、と首をかしげ、黒豆みたいな目で彼女をじっと見つめている。かなが左へ一歩ずれると、向こうもすこしだけ身をずらす。それでも降りてくる気配はない。
小沢かなは、肌身離さずのポケットに触れた。
この子が見ているのは――これ?
記憶が珠になりきるより先に、神の力だけが降りてきて、ありふれた灰色の斑雀に宿った。セシリーの「妖精のゴッドマザー」。王子の宴での星明かりのドレスも、黄金の馬車も、灰かぶりを飾り立てた奇跡はすべて、この小さな存在が生み出したものだ。
本の中の出来事は覚えている。けれど、この子が自分に懐くかどうかまではわからない。
――元のエステルの猫が、ついさっき噛みついたばかりなのだから。
「ピピ!」
階上からセシリーが身を乗り出した。かなの掌の苞谷を見た瞬間、手すりを掴む指がきゅっと強張る。
「お姉さま、何をするつもり?」
小沢かなは手すりの小さな命を見上げ、薄く笑った。
「少し食べさせてあげるだけ。セシリー、これ、わたしにちょうだい」
妹は早足で降りてきて、かなの前で立ち止まる。
「でもピピは、わたしがあげたものしか食べないの……きっと嫌がる」
「じゃあ、もし嫌がらなかったら?」
かなは鳥に近づかず、ただ掌を開いて苞谷を見せた。
「あなたについて行くなら、あなたが連れて行けばいい。わたしについて来るなら、わたしにくれる。――それで、いい?」
セシリーは鳥を見て、それから姉を見た。凍える冬の日、囲い布の中に隠して温めながら家へ連れ帰ったことを思い出す。
ピピはずっと自分のそばにいた。
戻ってくるに決まっている。
「……本当に、ピピがそうしたいなら」ようやく、こくりと頷く。「お姉さまにあげる」
小沢かなはそこで初めて、手を高く差し上げた。
「おいで。食べなさい」
灰斑雀がぱたぱたと羽を扇ぐ。かなは動かず、じっと待った。しばらくして、鳥はふわりと飛び、彼女の手首に降り立つ。身を乗り出し、苞谷を一粒ついばむ。
尖った爪が皮膚を掴み、くすぐったい。かなは反射的に手を引きそうになるのを堪え、ついばむのに任せたまま、腕をセシリーのほうへ差し出した。
「呼んでみて」
「ピピ、戻ってきて」
セシリーは手を伸ばし、二度呼んだ。けれど鳥は顔を上げて彼女を見るだけで、爪はかなの手首にしっかり食い込んだまま。背にそっと触れようとすると、最後の一粒をついばんだあと、今度は姉の袖を伝ってぴょん、と上へ跳ねた。
小沢かなの胸の奥が、じわりと落ち着いていく。
鳥は肘の内側に収まり、珠を隠したあたりへすり、と頬を寄せた。かなは手を引き、これ以上ポケットの奥へ潜り込ませない。
セシリーの顔色が、ゆっくりと白くなる。
「エステル!」
階上から甲高い声がした。赤い絹のガウンを羽織った女が、ばたばたと降りてくる。帯はゆるく結ばれ、薔薇の香りが人より先にかなへ届いた。
「まあ、あたしの可愛い子! 帰ってたのね!」
女はかなを抱きしめ、温かな掌で髪を撫でる。
小沢かなは不意を突かれ、顔が柔らかな胸元に埋まった。持ち上げた腕まで固まる。
「お……母さま?」
「当たり前でしょう」グラント夫人は少し身を離し、娘の顔を覗き込む。「どうしてこんな遅くに? お腹は空いてない?」
脇でセシリーが小さく言う。
「ピピが……」
夫人はそこでようやく鳥に気づき、表情がすっと冷えた。
「今度は何?」
「セシリーが、わたしにくれるって」小沢かなは声を落とす。「この子が、わたしについて来るなら」
「でも……」
「でも、何?」グラント夫人が遮る。「言ったことを引っ込めるつもり? エステルが欲しいって言ってるのに、あなたが渋る理由があるの?」
セシリーは口を開きかけた。
鳥は姉の腕に止まったまま、伸ばした指先にすら触れようとしない。
小沢かなは彼女を見つめる。
「ちゃんと育てるわ」
その一言が、セシリーの胸をさらに締めつけた。
姉が育てられないとは思っていない。ただ、わからないのだ。姉はもう、たくさん持っているのに。どうして、これだけまで奪うのか。
「……わかった」
俯き、囲い布の端へ手を引っ込める。
小沢かなは鳥を連れて階上へ上がった。
鳥かごに移し、餌と水を足してから、窮屈なドレスを脱ぎ捨てる。珠は取り出さないまま、扉を閉めてようやく、ポケット越しにそっと触れた。
一方、セシリーは裸足のまま屋根裏へ向かった。
「レイン」
闇の中で、青白い男が背後から彼女を包み込む。
「わたし、もうあなたしかいないの」小さく泣き出す。「どうしてママもパパも、ココまで……わたしのそばにいてくれないの?」
「高貴な姫君。あなたには、この世のいちばん美しいものがすべてふさわしい」
男は彼女の手の甲に口づける。
「私が取り戻してあげる」
セシリーは腕の中でしばらく息を整え、それから怯えるように尋ねた。
「ねえ……お姉さまって、綺麗?」
「欲望にまみれた汚い血が、お前と比べられるわけがない」
牙が少女の肌へ沈む。セシリーの嗚咽は、だんだんと小さくなっていった。
小沢かなは、そのことを何も知らない。
眠れないと思ったのに、身体が絹のシーツに触れた途端、意識はすとんと沈んだ。
夢の中で、彼女はまた古いランドセルを背負い、長い路地へ入っていく。
夕陽はもう落ちていて、家々から晩ごはんの匂いが漂う。子どもを呼び戻す声が飛び交う。突き当たりまで歩いて、ようやく開け放たれた扉が見えた。
庭の葡萄棚には、ずしりと重い房がぶら下がっている。
小さな女の子はそれを一度だけ見て、ランドセルの肩紐を握りしめ、家の中へ入っていった。鞄には試験の答案が二枚。六十点と六十五点。どちらも、彼女が慎重に計算して選んだ点数だ。
先に女の声が響く。
「知らないよ。あの子は返して。うちじゃ面倒見きれない」
男が宥める。
「箸が一膳増えるだけだろ……」
「箸一膳の話じゃないよ! うちの子が六十なら、あの子は七十。うちの子が八十なら、あの子は百点を取ってくる。何でも先を取って、うちの子を椅子から落とすようなことまでして……」
小沢かなは夢の外側から、その女の子に叫ぶ。入っちゃだめ、逃げて――。
女の子には届かない。
答案を取り出し、折れた角を伸ばして、もごもごと言った。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい。今回、うまくできなくて……六十点だった」
女が振り向く。
「ほら聞きな! ぎりぎり合格じゃない。こんな馬鹿を連れてきてどうするの。うちの子の半分にもならない!」
「子どもの前で言うなよ……」
男の声は押し潰される。
女の子は答案を持ったまま敷居に立ち尽くし、顔から何もかもが抜け落ちたようだった。
言われたとおりにしてきた。
良すぎたらだめ。なら、悪かったら?
紙は指に握り潰され、しわが増える。女の声は同じ言葉を何度も何度も繰り返す。扉は開いているのに、そこに立つ彼女には、どこへ行けばいいのかがわからない。
小沢かなは息ができなくなり、必死にもがいて――ようやく目を開けた。
