第7章 百点
夢の中の敷居なんかじゃない。
小沢かなは目を開けたまま、手を上げようとした。だが身体は、見えない縄でベッドに縛りつけられているみたいに動かない。必死に身じろぎすると、関節が圧されるかすかな音だけがした。
窓の外の月明かりが差し込み、ベッド脇に黒い衣の裾が一筋、立っている。
「……誰?」
影がすっと動き、彼女の上に覆いかぶさった。
男の顔はフードの奥に隠れている。見えたのは青白い手だけだ。次の瞬間、その手がかなの喉元を掴んだ。
「エステル」
「は……放して……」
引き剥がそうとしても、指はシーツの上で痙攣するばかりで持ち上がらない。空気が少しずつ押し出され、口を開けても喉から漏れるのは砕けた音だけ。
血の匂いに、氷みたいに冷たい気配が混じって鼻先を刺した。
暗夜公爵。
その名が跳ねた瞬間、小沢かなは思わず訊き返しそうになった。どうして、こんなに早く。
けれど相手は、彼女が理解するのを待ってはくれない。
視界の闇が幾重にも滲み、指先がふにゃりと力を失っていく。逃げられない。ベッド脇の何かにも触れられない。まるで本当に、解体台に載せられた肉塊だ。
――まだ、何か。
彼は傲慢で、血が好きで、獲物の恐怖が好きで……。
「お願い……」
涙が目尻を伝い落ちる。声は細く、ほとんど聞こえないほどだった。
「……見逃して」
「見逃す?」
男が低く笑う。
「無理だ」
「私……私の全部を差し出します。だから……」
「ほう。全部? おまえ自身を闇と悪魔に差し出すのも含めてか」
「悪魔……?」
かなは目を見開いた。ようやく何かを理解したみたいに、歯ががちがち鳴り、下唇を噛み切る。
血が滲んだ。
痛みなど感じていないかのように、彼女は慌てて首を振り続ける。唇が何度も歯先に擦れて、赤が増えていく。
レインの動きが、ふっと止まった。
至近距離の気配が濃すぎる。少女の恐怖、欲望、懇願――それらが生温い血に溶け、夜の闇で唐突に咲いた薔薇みたいに鼻腔を満たした。
清らかじゃない。
なのに、思わず顔を寄せてしまう。
首を締める力が緩み、手首もようやく少し動いた。
かなは唇を噛んだまま、息を殺す。
血が顎へ落ちる。レインが首筋へ俯せるように近づき、そこで止まった。どこから噛みつこうか選んでいる――そんな気配。
焦るな。
指先をシーツに貼りつけたまま、少しずつ枕の下へ探る。
寝る前、珠が転がるのが怖くて、ここに隠した。
そして今、指先があの冷たさに触れた。
小沢かなはぎゅっと掴み、琉璃珠を男の胸に叩きつけた。
じゅっと焦げた匂いが弾ける。
男の身体がびくりと縮み、喉元の手がようやく離れた。かなは大きく息を吸い込む。だが止まらない。退いた隙に上体を起こし、珠をさらに押しつけた。
「――っ」
触れた箇所から、薄い煙が立ちのぼる。
爪が肉に食い込み、もみ合ううちにフードがずるりと落ちた。漆黒の長い髪と、同じ色の瞳。
青白い顔。華奢で整いすぎた造作。そして、鋭い牙が二本。
「エステル……貴様、よくも――」
相手の顔色が変わったのを見て、小沢かなはようやく手を引いた。
一緒に死ぬつもりはない。
レインのマントがばさりと広がり、宙に浮く。胸元には焼け焦げた黒い穴が穿たれていた。ベッドの上で息を乱す少女を見下ろし、声は凍るほど冷たい。
「偉大なるレイン十世に喧嘩を売って、無事でいられる者などいない」
影がほどけ、霧みたいに消えた。
小沢かなは、手を上げた姿勢のまま固まっていた。
少し待って、さらに待つ。ベッド脇に誰もいないと確かめてから、ようやく身体を丸め、咳き込みながら涙をこぼした。
首が痛い。唇も痛い。
押さえつけられている間は感じなかったのに、今になって手足が震えだす。珠さえ落としそうになるほど。
――生きてる。
小沢かなは俯き、掌の中の、汚れひとつない琉璃珠を見つめた。
さっきは触れさせただけで、あの傲岸不遜な公爵が傷を負った。なのにその前は、どれだけ力を振り絞っても、喉の手を一分たりとも緩めさせられなかった。
そこにあるのは、抵抗することすら許されないほどの力の差。
昼間、診療所で考えていた。神に選ばれなくても、まずノアを掴まなきゃ、と。
今もあの冷たい手が、喉に残っている気がする。
一度やり過ごせたからって、次も必ず逃げ切れるのか。
「ピピ!」
突然、鳥籠から声が上がった。
小沢かなは顔を向ける。灰色の斑雀が羽をばたつかせ、黒豆みたいな目をきらきらさせている。視線が合うと、また慌てたように何度も鳴いた。
――そうだ。部屋には、こいつもいた。
さっきは、まるで息を潜めたみたいに静かだったのに。
かなはゆっくり起き上がり、喉の痛みを飲み込む。ふと、腹も立たなくなった。
珠のために飼い主のセシリーを捨てた鳥だ。彼女のために暗夜公爵へ噛みつくわけがない。
スリッパを引きずってベッドを降り、壁灯に火を入れる。
灯りが鳥籠を照らし、手の甲の震えまで浮かび上がらせた。かなは机の縁に手をつき、少し待ってから指先で鳥の頭をつつく。
「あなた、ピピっていうの?」
「ピピ」
「その名前、好きじゃない。今日からココ」
「ピピ」
「ココ」
「ピピ!」
「ココ」
鳥はじっと睨みつけてきた。しばらくして、ようやく一声。
「ココ」
小沢かなは机の縁から手を離す。
……やっぱり、節操なんてない。
その凶悪そうな顔は放っておき、階段口の横にある洗面へ向かった。金色の装飾が施された蛇口から水が落ちる。手ですくい、顎についた血を洗い流す。
水が傷口に触れ、痛みで手が止まった。
顔を上げると、鏡の中の少女もこちらを見ている。
金髪は乱れ、唇は切れ、雪みたいに白い首には指の痕。けれど青い瞳だけが、異様なほど冴えていた。
かなは手を上げ、目の下の皮膚をゆっくり撫でる。
夢の中の試験用紙が、また浮かび上がった。
残るために点数を計算して答え、門の前に立って、選ばれるかどうかを待っていた。今も待つのか。ノアが自分を好きになるのを。レインが見逃してくれるのを。
「……百点が欲しい」
鏡に向かって、彼女は小さく言った。
神恩者になりたい。神術を学びたい。長く生きたい。昼間の「いいよ」の一言じゃ、夜に踏み込んでくる誰かを毎回追い返せない。
小沢かなは布で指を一本ずつ拭き取った。
鏡の顔はまだ陌生だ。けれど、この目の奥の色だけは知っている。
「はじめまして、エステル」
口元がわずかに動き、鏡の少女も小さく笑った。
部屋へ戻る途中、かなは屋根裏を見上げた。足が一瞬だけ止まり、それでもすぐ前へ進む。
扉を閉め、珠を手の届く場所に置き直す。小沢かなは布団へ潜り込んだ。
今度は、夢を見なかった。
