第9章 クリスタルボール

小沢かなは先に学院へ顔を出し、手続きを済ませると、途中で抜けて宿へ引き返した。

フロントの長い髭の男は、彼女の姿を見つけるなり、皺だらけの顔をぱっと綻ばせる。

「グラント様、本日はロブス山のトゲライの花のようにお美しい」

「ありがとう。ノアは?」

鍵を受け取り、白いドレスの裾をつまんで階段を上がる。

「ノア、昨夜はよく眠れた?」

少年は窓辺に立ったまま、すぐには答えなかった。近づいてようやく振り向く。白いリボンの下の表情は、まだどこか宙に浮いている。

「正直、あまり」

自分は何者なのか。どこで暮らしていたのか。家族や友人はいるのか。眼は仇に抉られたのか。――そんな肝心なことさえ、どうして何ひとつ思い出せないのか。

小沢かなは隣に立ち、笑みだけは崩さない。

「それと、エステル」

彼は一拍置いた。

「どうして、そんなに僕に優しくする?」

「ノアのことが好きだから」

返事は速い。言い切ってから、彼女は彼の顔を丹念に見つめた。

照れも、喜びも、甘い言葉に揺らぐ気配もない。理解しきれない言葉を聞いたみたいに、彼は真剣に考え、それから彼女に謝った。

「ごめん。そういうの、よくわからない」

小沢かなは視線を落とす。

「……そっか」

やはり、神の心はそう簡単には転がらない。

原作のセシリーでさえ、最後に与えられたのは不滅の命と神に仕える地位だけで、神后にはなれなかった。万人に仰がれるその神は、物語の中で一度も彼女に心を渡していない。

失望をほんの一瞬だけ顔に残し、すぐに立て直す。

「じゃあ、外を歩こう。知り合いに会えたり、見覚えのある場所を見たりしたら、少しは思い出せるかもしれないし」

ノアは頷いた。

「手、出して」

言われるまま手を上げると、彼女は指を差し入れ、ぎゅっと絡めて握った。

少年がわずかに身を引く。

「だめ。仲のいい友だちなら、こうやって手をつなぐの。それに、迷子にならない」

あまりにも自然な口ぶりだった。

「エステルは、他の人ともそうやってつなぐのか?」

「しない」

声が少し落ちる。

「友だち、ほかにいないの。みんなセシリーが好きで、わたしのことは意地悪だって、いじめてるって言う。……あ、セシリーは義妹で……」

言葉はどんどん小さくなり、最後に彼女は意地を張るように顔を上げた。

「向こうがわたしを嫌うなら、わたしだって友だちになんてならない」

「でもエステルは、優しい子だ。僕を助けてくれた」

ノアは言い終えたあと、自分でもその呼び名に引っかかったように、ほんの一瞬だけ間を置いた。

けれど小沢かなは、もう笑っている。

「本当? じゃあ約束して。これからセシリーと知り合っても、あの子とは友だちにならないで。ね?」

絡めた手を小さく揺らす。

「わたしの友だちは、最後にはみんなあの子の味方になる。ノア、あなたはわたしだけの友だちでいて」

少年は少し身を屈め、彼女の頭をそっと撫でた。

「エステル、行こう」

肯定はしない。

彼女にはそれがわかったから、これ以上は追わず、手をつないだまま階下へ降りた。

宿代を精算すると、二人はライル診療所へ向かった。九十六ルソスを支払い、金色のアイリスはようやく彼女の掌へ戻る。

小沢かなはそれをしまい込み、フロース大通りで数珠を通す糸も買った。

手首の白い羽根が光を受けてかすかに艶めく。珠も同じように大切に保管しなければならない。だが、十分な保険を手に入れるまでは、ノアの手に戻すつもりはなかった。

馬車が最後に止まったのは、城内に設けられた光の神殿の出張小殿、その前だった。

小沢かなは少年の手を引いて中へ入る。

「学院の試験は受けられないけど、ここなら受けられる」

彼はソロン学院の生徒ではない。選抜の季節には、彼のような者でも一定の費用を払えば出張所で測定を受けられる。結果が神に選ばれし者なら、費用は返還される仕組みだ。

彼女自身も、ここで先に答えを知りたかった。

「1,000ルソス」

係員は顔も上げない。

小沢かなの手元に残る金では、明らかに足りなかった。

彼女は、いま取り戻したばかりのアイリスを机に置く。

「これを担保に。だめ?」

「帰れ帰れ——」

不機嫌に顔を上げた男は、追い払う言葉を途中で飲み込んだ。

白いドレスの少女が机の前に立ち、金髪を柔らかく肩に落としている。両手を握り、蒼い瞳にかすかな懇願が滲んでいた。

「お願い。規則なのはわかってる。ただ……」

「か、可能です。グラント家なら、もちろん」

男が頷くと、小沢かなはすぐに笑った。

「あなた、いい人ね」

「測るのはあなたで?」

「ううん。この人」

ノアを前へ出した瞬間、係員の背筋がすっと伸び、立ち上がって礼をしそうになる。

「水晶球に手を置いて。何も考えなくて——」

言い終える前に、白い光が弾けた。

蛍火のような微光ではない。増して、増して、やがて小殿いっぱいを満たすほどの光。机の向こうの男は口を開けたまま、続きの言葉を忘れていた。

外から切迫した足音が響く。

「ここで神術を使ったのは誰だ! 罰を——」

赤髪の神使が杖を携えて踏み込む。視線がノアに落ちた途端、怒声が途切れた。

「光の神よ……聖光体?」

伝承にしか記されない体質が、目の前にいる。

水晶球が壊れているのでは、と小声で疑う者もいた。

小沢かなは何も言わない。ノアが手を引くのを待ち、皆の視線がまだ彼の顔に釘づけのうちに、そっと自分の掌を水晶球へ重ねた。

光は、引いていく。

目を閉じ、必死に何かを感じ取ろうとする。けれど厚い石壁を隔てたみたいに、呼応するものがどこにもない。

水晶球は完全に闇へ戻った。

小沢かなは一拍置いてから手を離す。

――ない。

診療所で宙づりになっていた疑問は、こうして答えになった。

人々はノアへ殺到し、彼女は端へ押しやられた。俯いて自分の手を見る。昨夜、珠を握っていたからこそ公爵の手から逃げおおせた。だが神のものを握ったところで、神に愛される者になれるわけではないのだ。

「エステル?」

ノアが人垣をかき分け、彼女のほうへ歩いてくる。

「うん」

彼女は口元を弧にして顔を上げる。瞳にはまた笑みが宿っていた。

視線は改めてノアに落ちる。真に神恩を得るには、目の前の神の化身と結ばれるのが近道だ。

ただ、ノアにその気にさせるのは――水晶を光らせるより、どれほど難しいのだろう。

言葉を発する前に、寄ってきた神職者にまた押しのけられる。

「お名前は」

「ノア」

「神と同じ御名とは、なんと……」

小沢かなは、さっきまでつないでいた手が、白い衣の影に次々と隠されていくのを見ていた。

しばらくして、入口がふっと静まった。

質問に夢中だった者たちが一斉に道を開け、視線を外へ向ける。小沢かなも振り返り、白髪の老者が星月の権杖を手に、小殿へ入ってくるのを見た。

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