第1章 天野さんの若奥様
午後3時、T市市役所。
正面入口から少し離れた駐車場に、黒いマイバッハが停まっていた。
夏のいちばん暑い時間帯。婚姻届を出しに来る人影はまばらだ。
後部座席にはスーツ姿の長身の男がいた。腕時計に目を落とし、銀縁眼鏡の奥の冷えた眉目に、わずかな苛立ちが滲む。
「時間だ。……人は?」
淡々とした声が前方へ流れた。なのに、どこか刺すような冷気を帯びている。
車内はしんと静まり返り、エアコンの風だけがごうごうと渦を巻く。
運転席のアシスタントが、思わず身を震わせた。
「か、彼女は……」
男は肘をつき、片手で窓枠に体重を預けたまま眉骨をつまむ。瞼すら上げない。
「調べろ」
「はい」
五分もしないうちにアシスタントは情報を掴んだ。だがスマホの画面を見つめたまま、バックミラー越しに男の顔色を窺い――言葉が出ない。
「どこだ」
男がわずかに目を上げ、ミラーの視線とぶつかった。
運転席がびくりと跳ねる。
「わ、若奥様は……け、警察署に。……け、喧嘩で、拘束されたそうです」
「……」
後部座席の男は目を細めただけで、何も言わない。
――やってくれる。
昨日契約書にサインしたばかりで、今日さっそく警察沙汰とは。
アシスタントはミラー越しに盗み見た。陽光を反射する銀縁眼鏡の下には、見慣れたほど冷静すぎる眼。
「今回、若奥様は少し厄介かもしれません」
アシスタントは息を吸い込む。
「相手は内田浩司。内田グループの御曹司で、親の権力を盾に学校で好き放題やってます」
男の指先が窓を規則的に叩く。斜めにアシスタントを一瞥した。
「何が原因だ」
「内田浩司と若奥様は同じ大学で、内田が一目惚れ。何度も告白して振られ続けたので逆恨みし、学内で若奥様の噂を流しました」
アシスタントはタブレットをめくりながら報告する。
「噂……」
男が鼻で笑い、瞳の奥に侮蔑が走る。
アシスタントは頷いた。
「それで内田が『もう若奥様と……』と――」
続きを言う前に、男の顔色が沈んだ。アシスタントは即座に口を閉ざす。
「彼女は損をしたか?」
男が再び目を上げる。眼鏡が冷たい光を弾いた。
「え、ええと……」
アシスタントは慌てて操作し、数ページ送る。すると少女の写真が表示された。
絵に描いたように整った顔立ち。頬には乾ききらない涙の跡が残り、涙で潤んだ瞳は赤くなっている。頬には引っ掻き傷もあった。
か弱く、ひどく痛々しいその姿に、見た瞬間、胸が痛んだ。
「若奥様は……」
アシスタントは言葉に詰まり、タブレットを後部座席へ向けた。
男の表情が一気に底まで沈む。
「警察署へ」
「はい」
アシスタントはタブレットを助手席へ放り、エンジンをかけた。
だが、さっき勢い余って次のページへ触れてしまっていたことに気づかない。
そこには――内田浩司が、殴られて立てなくなった写真が映っていた。
……
水島三久は警察署の調停室で、部屋の中央に掛かった時計を見つめていた。
――終わった。遅刻だ。
事情聴取で二時間も座らされ、警官は延々と仲裁しているが、どうにもまとまらない。
「信じてくださいよ!! 被害者はこっちです!!」
腕を吊った内田浩司が憤怒で吠えた。
「俺はあの女にやられたんだ! あいつ、マジで狂ってて! 入ってきた瞬間こう――」
叫びながら、吊っていない腕で大げさに身振りする。
調書を取る警官は頭を抱え、机の書類と、隣の小柄な少女を見比べた。
「確認だが……彼女が入ってきて君を二メートル以上蹴り飛ばした。その後、君ら数人がかかって、こうなった……と?」
「そうだ! 個室に監視カメラがある! 証拠は――」
「……そのカメラは故障で二、三日動いていなかった。何も映ってない」
警官はペン先で机を軽く叩き、また考え込む。
話が荒唐無稽すぎる。目の前の少女は身長も一六〇に届かず、細い腕に細い脚。どう見ても屈強な男たちをこの有様にできるとは思えない。
警官はため息をついた。
「双方に怪我がある以上、相互暴行扱いだ。こういう場合、和解が一番だと思うが」
「……わ、和解します」
ずっと黙っていた水島三久が、ふいに立ち上がった。
声は小さく、柔らかい。
なのに、向かいの大男たちが一斉に震えた。
反射的に後ろへずれた拍子に、端に座っていた内田浩司が押し出され、仰向けに転がる。
「くそっ!」
内田浩司は机の下から這い出し、水島三久に怒鳴りつけた。
「なんで俺がてめぇと和解しなきゃなんねぇんだ!」
「警察の手を無駄にしてるからだ」
冷えた声が入口から差し込んだ。
背の高い男が調停室の扉口に立っている。
その背後からアシスタントがすぐに入り、警官へ丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。池田守と申します。こちらは上司の天野真司です。揉め事の処理に参りました。今回の件は誤解で、彼らは大学の同級生です。少し言い争っただけで……こちらで私的に調整いたしますので、ご安心ください」
当事者が反論しないのを見て、警官は頷いた。
「分かった。じゃあ、よく話し合え」
内田浩司は天野真司を上から下まで見て、じわりと冷や汗をかいた。
T市で天野真司の名を知らない者はいない。
二十歳で天野家の事業を継ぎ、この十年で天野真司に潰された会社は八十どころか百は下らない。
決断は速く、容赦もない。商界の鬼――。
内田浩司の家も商売をしている。だからこそ分かる。
恋愛沙汰の噂一つない天野真司が、なぜ水島三久と?
内田浩司は口を開きかけた。
「天野さん……」
天野真司は内田浩司を無視し、ベンチに座って妙におとなしい水島三久へ視線を向けた。
「怪我はひどいか。立てるか?」
水島三久は首を振り、銀縁眼鏡の奥の黒い瞳を見上げる。声は綿のように柔らかい。
「分かりません。すごく痛いです……」
天野真司の瞼が上がり、眼底に殺気が滲んだ。
「待ってろ」
それだけ投げ、天野真司は警官の席へ腰を下ろした――。
