第2章 傷メイク
天野真司は手を上げてスーツジャケットのボタンを外し、目の前の数人をゆっくりと見回した。冷淡だが、礼は崩さない。
「和解の条件を話そう」
天野真司の言葉を聞いた途端、内田浩司の肝が据わった。
相手は商売人だ。水島三久みたいに殴ってくるはずがない。
なら、何を怖がる必要がある?
殴ったのは水島三久だ。だったら――ここで一発、ふんだくってやればいい。
「条件なら簡単だ」
吊った腕を机にどん、と置く。
「この腕、そこの女に折られたんだ。数百万は出してもらわねえと、今日の件は終わらねえぞ!」
「……本気か?」
天野真司は椅子にもたれ、背後のアシスタントへ指を鳴らした。
「池田守」
「はい、若様」
池田守は即座にスマホを取り出し、操作を始める。
内田浩司は、天野真司があまりにあっさりしているのを見て、内心で舌打ちした。
――さっきの俺、ケチすぎた。
「いや、違うな!」
内田浩司はその場で掌を返す。
「腕の怪我は医療費だ。数百万はただの治療代。これで終わらせたいなら、精神的苦痛で最低でもあと200万は必要だ!」
最近は女にバッグだのアクセだの買わされて金が飛んでいる。親父には浪費だと小遣いを絞られた。
なら、ここで取り返すしかない。
「内田浩司! それ、恐喝じゃない!」
水島三久が歯を食いしばり、鋭い目で睨みつける。眉間に殺気が走った。
――さっき顎も外しておけばよかった。
天野真司が軽く手を上げる。美しい手首の骨格が覗き、水島三久が前に出るのを制した。
それを見て、内田浩司はますます調子に乗る。
「恐喝がなんだ? 俺が言って、てめえらが払う。それだけだろ!」
「その通りだ」
天野真司は小さく頷く。
「商売ならな。だが恐喝は別だ」
池田守がスマホを机に置き、軽くタップする。
スピーカーから、さっきの内田浩司の声が流れた。
『精神的苦痛で最低でもあと200万は必要だ!』
天野真司はゆっくり立ち上がり、外したボタンを淡々と留め直す。瞳が沈む。
「相互暴行なら、手続き通りで行政拘留は最大15日だ。だが数百万の恐喝となると――何年だ?」
「……」
内田浩司の顔色が一気に抜けた。
さっきまで交渉だったはずが、いつの間にか自分が恐喝犯になっている。
天野真司の表情は薄いまま、喜怒を読ませない。
池田守が背後から、やけに真面目くさって補足する。
「被害額が高額になれば、懲役3年以下では済まない可能性があります。特に悪質な事情が認められれば、3年以上10年以下の懲役になることもあります。数百万円規模となれば、かなり重い処分になるでしょうね」
内田浩司は、空気が抜けた風船みたいにその場へへたり込んだ。
池田守は目的が達したのを見ると、今度は助け舟を出す。
「若様、内田様も冗談でしょう。友達同士の押し合いにしか見えませんし、恐喝なんてするはずが――」
軽く咳払いしつつ、内田浩司にウインクする。
内田浩司は飛び起き、必死に頷いた。
「そ、そうそう! 俺と水島三久は同級生だ! 恐喝なんてするわけねえ!」
「じゃあ、相互暴行は?」
「違いますって! ふざけてただけです!」
内田浩司も馬鹿じゃない。
天野真司が水島三久を庇っているのは明白だ。今日ここで勝てる相手じゃない。引くのが正解。
――水島三久のことは、また今度だ。
同じ学校にいる。機会なんていくらでもある。今は焦る必要はない。
「ならいい」
天野真司の澄んだ黒い瞳が、内田浩司を射抜く。
声は淡いのに、首筋を掴まれたような息苦しさが迫った。
――怖すぎる。
……
ほどなく警察署から調停書が出され、一行は順に署を後にした。
天野真司の車に乗り込んだ水島三久は、車載モニターの時刻を見た。
さすが天野グループの社長。手際が違う。
自分が2時間以上かけても片付かなかった相手を、たった10分で黙らせた。
「今から市役所に行きます?」
水島三久が、隣の天野真司へ顔を向ける。
天野真司は蝶ネクタイを指で引っかけて緩め、背もたれに預けたまま、少し崩した姿勢になっていた。
「こっちへ」
清冷な声が車内に落ちる。陽光が銀縁眼鏡を撫で、硬質な光を散らした。
水島三久は一秒だけ迷い、黙って彼の側へ寄った。
声を出そうとした瞬間、天野真司の大きな手が正確に顎を掴み、軽く持ち上げる。
密閉された車内。距離は息が絡むほど近い。
天野真司の視線が彼女の顔をなぞり、頬の傷に留まった。
眉がわずかに寄り、手が離れる。声が一段冷える。
「池田守。いちばん近い病院へ」
「はい、若様」
「い、いりません……」
水島三久は気まずそうに口角を引いた。
すぐに背負っていたバッグを前へ回し、クレンジングシートを取り出して頬を拭う。
傷がするりと消えた。
天野真司の眉が上がる。
「……描いたのか」
「うんうん。傷メイク」
水島三久は小さな鏡も取り出し、丁寧に拭き取っていく。
元々白い肌は、少し力を入れただけで頬が赤くなる。メイクは落ちたのに、むしろ乱暴に扱われたみたいに見えた。
天野真司は眉間を揉み、さっきの心配が無駄だったと悟る。
事前に目を通した資料には、海外の格闘チャンピオン歴――三連覇。
内田浩司程度、相手にもならない。
「若様、病院へ向かいますか?」
池田守は動けずに待っていた。
天野真司は横目で水島三久を一瞥する。
「市役所へ」
「はい」
天野真司と水島三久の両親は旧知で、天野家がまだ成り上がる前から水島家と親しかった。
両家は早々に許嫁を決めていたが、水島家の長女は一歳にも満たず亡くなり、その後に生まれた水島三久の頃には、天野真司はすでに10歳になっていた。
その後もいくつもの出来事が重なり、両家は疎遠となり、婚約も自然消滅した。
天野真司が三十歳になっても結婚する気配はなく、結婚を心配した祖父が倒れて入院したことをきっかけに、真司はその古い婚約を思い出した。
探させた結果、水島家夫婦はすでに病没。残っていたのは水島三久ただ一人――。
