第3章 必ず時間どおりに

おじい様の病状を落ち着かせるため、天野真司は水島三久を探し出し、条件を提示して「契約結婚」を持ちかけた。

意外にも、水島三久はあっさり頷いた。

この時間帯の市役所は空いている。ふたりで書類を書き、写真を撮り、10分もしないうちに赤い手帳を2冊受け取って外へ出た。

「今夜、祖父が家で食事をって。5時半に池田守が学校へ迎えに行く」

天野真司は市役所の入口の階段に立ち、逆光の中で彼女を見下ろす。

背が高い。ほとんど彼の影に包まれるほどだ。

深い眉目が、彼女の灰色のパーカーに落ちた。

「夜は着替えろ。祖父はおとなしい子が好きだ」

「大丈夫です」

水島三久は結婚手帳を指先で軽く弾き、目を細めて笑った。

「天野さん、ご安心ください。今夜は必ず時間どおりに伺います」

「……」

天野真司はわずかに眉を上げた。水島三久を見る視線に、言い表しがたい色が混じる。

水島三久は雨成大学のコンピュータ系の学生だ。両親が早くに亡くならなければ、もっと上を狙えたはずの才。

雨成大学の海外交換留学でも成績は常に優秀だった。

けれど、家の事情でそれ以上の進学は叶わず、留学を終えたら帰国するしかなかった。

惜しい。

「乗れ。学校まで送る」

天野真司は視線を引き戻し、淡々と言った。

だが水島三久は手を振る。

「いいです。ちょっと寄って、荷物を取らないと。お手数かけません」

契約結婚は一年限定。結婚の事実は双方の近しい家族だけが知り、外には徹底して伏せる――それが天野真司の意向でもある。

それに、この車は目立ちすぎる。明日の学内掲示板のトップなど御免だ。

水島三久の態度が固いと見て、天野真司もそれ以上は言わなかった。

一歩退き、彼女を先に行かせる。

灼ける陽射しの下、小さな背中が遠い通りへ溶けていった。

「彼女について、何か掴めたか」

天野真司は横目で池田守を見て、後部座席へ乗り込む。

婚約の話を持ち出したのは叔父の天野山夫で、水島三久を探して連れてきたのも天野山夫だ。

祖父に取り入って天野家の実権を握る腹――天野真司は承知している。

池田守が運転席から報告する。

「若奥様は、以前に天野山夫と一度会ったきりです。その後の接点は確認できません」

言い終えて、池田守ははっとして振り返った。

「若様……若奥様が天野山夫の手先だと?」

「手先かどうかは重要じゃない。……水島三久本人かどうかすらな」

天野真司の淡い瞳が細まる。

「重要なのは、一年――天野奥さんの席に大人しく座っていられるかどうかだ」

天野山夫が差し込んだ目はこれまでにも多い。水島三久が一人増えたところで変わらない。

天野真司が嫌なのは、ただ面倒だけだ。

祖父が落ち着いて手術を受けるまで、水島三久が役目を果たすなら、多少のことは見逃す。

「……では」

「監視を続けろ」

「はい、若様」

……

市役所から叔父の家までは、角を二つ曲がるだけ。水島三久はタクシーを使わず、15分歩いて門の前へ着いた。

鍵を開けると、リビングがざわつき、叔父の水島賢と叔母の佐藤愛子が揃って出迎えた。

「三久、帰ってきたの?」

佐藤愛子は愛想よく言いながら、視線はずっと彼女の背後を探っている。

誰もいないと分かった途端、顔がすっと冷えた。

「天野さんは? 送ってくれなかったの? 今日は一緒に市役所で手続きしたんでしょ?」

信じられないとばかりに玄関から外を覗き込み、豪華な車がないのを確認すると、さらに不機嫌になる。

朝から美容院に行き、当季の新作ワンピまで着たのに――来ない?

水島三久は靴を脱ぎながら淡々と答えた。

「天野真司は仕事が忙しくて。手続きが終わったら会社に戻りました」

「はあ!?」

佐藤愛子の目が吊り上がる。

「前に言ったでしょ。手続きが済んだら、その足でうちに顔出しなさいって!」

水島賢が慌てて止めに入る。

「愛子、三久も言っただろう、天野さんは忙しいんだ。それにもう夫婦なんだし、会う機会は――」

「何が会う機会よ!」

佐藤愛子は腕を振り払った。

「一年だけの結婚でしょ? 手続きって大事な日に実家に挨拶もしない男が、あとで来ると思う?」

「……」

水島賢は言葉を失った。

この家の主導権は佐藤愛子で、仕事のつながりも彼女の実家頼み。水島賢に発言権は薄い。とくに水島三久の件では。

「三久、疲れただろ。二階で休みなさい」

水島賢は佐藤愛子をなだめるふりをしつつ、目で「逃げろ」と合図した。

水島三久は頷き、二階へ上がる。

叔父は悪い人ではない。ただ、弱い。

階段の踊り場まで来ても、佐藤愛子の声は追ってくる。

「あなたはあの恩知らずを庇ってばっかり! 後見人のサインしたから留学できたんでしょ? その時だってお金渡して!」

恩を着せるつもりの言葉が、水島賢には刺さった。

水島三久が来てから、食事も生活も彼はほとんど関わっていない。

してやったことはその二つだけ――それすら責め立てるように言われ、顔が赤くなる。

「それに二階の部屋だって! 留学してからずっと空けて――」

その先はもう耳に入らなかった。

水島三久は部屋の前に立ち、扉を開ける。入口の段ボール箱を押し込み、ようやく足場を作って中へ入った。

二階の西端のこの部屋は、もともと物置だ。

水島三久が急に転がり込んだ時、佐藤愛子は家政婦に命じ、娘の水島月乃が使わなくなった小さなベッドを物置に押し込み、そこを「部屋」にした。

横にはピンクの子ども用タンス。歪んで色褪せ、これも水島月乃のお下がり。

水島三久はベッドに倒れ込み、パーカーのポケットから赤い手帳を取り出した。

赤地の写真の男は冷ややかな眉目で、それでもやけに整っている。

小さな指が写真の眉をそっと撫で、口元が弧を描いた。

と、その時。

バッグの中のスマホがぶるる、と震えた。

水島三久はそれを取り出し、眉をひそめる。

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