第5章 一杯で酔ったの?

医者からは念を押されていた。おじい様に考え込ませるな。心労は、そのまま体に響く――と。

主治医のひとりである天野拓也が、それをいちばん分かっている。

けれど、体は治せても、心は……。

「おじいちゃん、それ老いじゃなくてベテランだよ!」

水島三久は形のいい目をくしゃりと細め、ぱちりとウインクした。

「だってさ、この部屋でいちばん長くカッコいい時間を積み重ねてきたの、おじいちゃんでしょ?」

天野おじい様は一瞬きょとんとして、次の瞬間、堪えきれずに笑った。

「ベテランって、そういう使い方で合ってるのか?」

「細かいことは気にしない。カッコよければ勝ち!」

三久は宥めるようにおじい様の肩をぽんぽんと叩き、やけに自信満々に言い切る。

「ははははは……君、ほんと面白い子だなぁ……」

久しぶりに見たおじい様の笑顔に、天野拓也は思わず三久を見直した。

――家に女性が増えるのも、悪くないかもしれない。

「大旦那様、お食事のご用意が整いました。お運びいたしましょうか」

執事が進み出て、恭しく頭を下げる。

「うむ、食事だ! 三久も腹が減ったろう」

天野おじい様は慈しむように三久を見てから、執事へ顎をしゃくった。

「それと、ワインセラーから……澄人が前にF国で落とした赤を持ってこい。今日はめでたい!」

「かしこまりました」

執事が身を引き、先導する。

三久は来る前に届いた忠告を思い出し、眉をふっと上げた。天野家の面々へ視線を巡らせ、最後に天野真司へ落ちる。

真司は淡々と彼女を一瞥しただけで、何も言わずに歩き出した。

天野家の旧宅は広い。先ほどまでいたのは母屋に付いた静かな一室で、普段は書斎として使われているらしい。

部屋を出て前廊を進み、西へ折れて門をくぐると、食事の大広間に着いた。

「さあ三久、ここだ。じいちゃんの隣に座れ」

おじい様が先に腰を下ろし、隣の席を叩く。

「はい」

三久は素直に頷き、ちょこんと座った。

円卓は大きく、残りの四人が両側に座ってもまだ余裕がある。

それより三久が少し驚いたのは、並んだ料理だった。いくつか、フランス風の品が混じっている。

――私がF国にいたこと、覚えてくれてたんだ。

胸の奥が、ほんのり温かくなる。

そこへ執事が赤ワインとデキャンタを運んできた。グラスが次々と満たされていくのを見て、三久の心臓がひやりと鳴る。

「おじいちゃん、私、お酒あんまり……」

「大丈夫だ。酔ったら泊まっていけ。部屋はいくらでもある」

おじい様はグラスを軽く揺らし、三久へ掲げた。

――真司と三久が籍を入れたことに、おじい様の中にはずっと引っかかりがある。知り合ってから、たった一か月。あの真司が、何の裏もなく――?

酒で口が緩んだところを探りたい。飲めないなら、なお都合がいい。

三久は困って、近くに座る真司へ視線を投げた。助けを求めるように。

だが真司はグラスの縁を指でなぞり、涼しい声で言う。

「じいちゃんが飲める機会は少ない。二杯くらい付き合え」

真司もまた、知りたいことがある。ただ、狙いが違うだけだ。

逃げられないと悟り、三久は引きつった笑みで頷いた。

食卓はぽつぽつと会話が続き、やがて一杯目が空になる頃――空気が変わった。

三久は片手で頬杖をつき、潤んだ目をとろんと半分だけ細める。頬は真っ赤で、妙に愛らしい。

……一杯で、酔った?

おじい様は意外そうに問いかけた。

「三久。真司と知り合って間もないのに結婚して……無理をしていないか?」

大広間が、すっと静まり返る。

視線が三久に集まり、次いで真司へ流れた。

真司の黒い瞳は灯りの下でも澄み切っていて、揺らぎひとつない。

三久は体を傾け、幼い笑顔を上げた。

「全然そんなことないよ! 天野さん、待遇めちゃくちゃ良いんだから! 私、有給休暇まであるんだよ!」

「……」

真司のフォークが「キィ」と皿を引っ掻き、耳障りな音を立てた。

――止めておけばよかった。

一杯で倒れるだけならまだしも、酔うとこれだ。何でも口にする。

契約書に追加条項だ。今後、飲酒禁止。

おじい様の探るような視線を受け、真司は落ち着いてナイフとフォークを置き、ナプキンで口元を押さえてから淡々と説明した。

「言っているのは小遣いのことです」

不思議と、妙に説得力がある。

「うんうんうん!」

三久は勢いよく頷き、グラスを高く掲げた。

「来! おじいちゃん! 私のお小遣いのために、もう一杯!」

おじい様は一瞬固まりつつも、流れに乗ってグラスを上げた。

「三久、帰国して間もないが……本当に自分の意思で嫁いだのか? 真司は――」

「じいちゃん」

真司が遮る。

「もう籍を入れた。今それを聞くのは不適切だろ」

このまま追及されれば、酔った三久が余計なことを言いかねない。

「天野さんの言う通り! 乾杯!」

三久はデキャンタを掴み、おじい様のグラスに大半を注いで押し出した。

「来、おじいちゃん!」

「……」

おじい様は酒と三久の期待に満ちた目を見比べ、ふう、と息を吐いて杯を上げる。

度数は高くない。だが飲み方が悪い。

ろくに食べずに三杯。おじい様はすぐに回った。舌も、少しもつれる。

「三久……いいか。真司はわしの孫だ。あいつがいじめたら言え。わしが――わしが守る! わしが面倒見る!」

「任せて! これからは兄貴についていきます!」

三久はグラスをぶつけ、仰いで飲み干す。

おじい様はすっかり上機嫌で、孫嫁という立場などどこかへ飛んでいた。

「よし! 今日から君は、わしの妹分だ! 来い!」

前のチャプター
次のチャプター