第2章

 私は牢の隅で身を丸めていた。息をするたび傷口が引きつれ、痛みに身体がぶるぶる震える。

 極限まで弱りきったそのとき、周囲の水温が唐突に、しかも急激に下がりはじめた。

 自然の潮流じゃない。

 牢の外周を囲む、海妖の骨で組まれた柵が――その力に触れた途端、音もなくさらさらと塵になって崩れた。

 背の高い黒い影が、すい、と泳ぎ入ってくる。

 私は恐怖で身を縮め、もっと深い影へ潜り込もうとした。けれど影は迷いなく、真っ直ぐこちらへ向かってくる。

 男だった。無駄のない裁ちの濃色の戦袍をまとい、広い肩が光をすべて塞ぐ。男は私の前に片膝をつき、何も言わずに手を差し出した。

「……触らないで」

 掠れた声で拒む。だが男は私の抵抗など意に介さない。冷たい薄い胼胝のある大きな手が、正確に私の魚尾を押さえ込んだ。

 また痛めつけられる――そう思った次の瞬間。

 ほのかな薄荷と深海の海藻の匂いを含んだ、とろりと濃い薬液が、傷口へそっと塗り広げられた。

 灼けるような激痛が、奇跡みたいに引いていく。代わりに沁みるような涼しさが広がり、呼吸が少しだけ楽になった。

 私は呆然とした。戻りはじめた微かな光の中で、ようやく男の顔を見た。

 最も苛烈な彫刻師に磨き上げられたみたいな相貌。鋭い顎のライン、疑う余地のない威圧。けれど、魂を震えさせたのは――その眼だった。

 深く、冷たい。瞳孔の奥で、沈んだ黄金と底無しの幽藍が絡み合っている。

 北大西洋一帯の伝承で、こんな金と蒼の双眸を持つ存在はただ一柱。

 人魚の血肉を喰らうと謳われる、恐るべき暴君――海神、アレス・テッド。

 生きたいという本能が痛みを押し潰し、私は突然力を振り絞った。尾を引き抜いて牢の外へ――「放して!」

 けれど、いまの自分の力を買いかぶっていた。

 アレスは座り方すら変えない。ほんのわずか手を上げただけで、目に見えない水の渦が私をきつく縛り、いとも容易く引き戻して、彼の前へ叩きつけるように据えた。

「無駄な力を使うな」ようやく彼が口を開く。低く、磁力みたいに耳に絡む声だった。

「そんなに逃げたいのか。どこへ? おまえの鱗を一枚ずつ剥いだ連中のところへ戻るつもりか」

 私は凍りついた。骨鞭を振るう父の冷酷な顔が脳裏に蘇る。ケールがリアを背に庇ったときの、あの淡い無関心の眼差しも。

 唇を噛みしめる。涙だけは止まらず、ぽとり、ぽとりと海水へ落ちて溶けた。

「……私、逃げ場なんてない。そういうこと?」自嘲が喉の奥で割れた。

「あなたが供物を食べに来たのなら、海神様。好きにすればいい」

 アレスは涙で濡れた私の顔を見つめ、瞳に一瞬だけ幽かな光を走らせた。そして拘束の渦を引っ込める。

「未練を断ち切りたいなら」彼は立ち上がった。

「一つ、罠を仕掛けよう。エラ・セレン。牢で流亡した屍食鮫の群れに攫われ、死の海溝へ引きずり込まれる――そういう情報を流させる。献祭までまだ数日ある。家族が、おまえ一人のために命懸けで助けに来るなら……おまえの献祭の運命は免じてやる」

 少し間が空く。

「だが来なければ……あんな屑どもに、二度と幻想を抱くな」

 身体が小刻みに震えた。理性は、残酷な心理の遊戯だと告げている。それでも穴だらけの心は、藁みたいな希望に手を伸ばしてしまう。

「……わかった」自分の声が、砂のようにかすれて聞こえた。

 二日後、アレスの斥候が報せを持ち帰った。

「アキローナ城は全域が戒厳。セレン家とドレイク家は精鋭を総動員し、上層部は中心広場へ緊急集結中。皆、気が急いているとのこと」

 その瞬間、傷の痛みさえ忘れた。胸の奥で何かが弾け、ほのかな希望が灯る。

 父はまだ私を気にかけている――そうだよね。私は実の娘なんだから。ケールだって後悔したのかもしれない。目先の利に目が眩んだだけで、私が本当に死ぬと聞けば……助けに来てくれるはず。

 アレスは、ぱっと明るくなった私の目を見ても何も言わず、顎を僅かに上げた。拘束が解ける。

「見に行け」

 私は、かさぶたになりかけた魚尾を引きずりながら、アキローナへ向けて必死に泳いだ。以前の速さには及ばない。けれど心だけは、もうあの生まれ育った都へ飛んでいた。

 やがて見慣れた珊瑚礁の防壁が視界に現れる。密生する海藻をかき分け、私は覚悟した――武装した一族の者たちが、私のために焦り叫ぶ光景を。

 けれど、戦馬も槍も、切迫した呼び声もない。

 降り注いできたのは、金色の夜光水母の破片が舞い散る光の雨。そして耳を裂くほどの、神聖な海螺の号角だった。

 私は巨大な折れた石柱の陰に身を潜め、呆然と中心広場を見つめた。そこは華やかに飾られ、真珠を散りばめた赤い絨毯が神殿から階段の下まで伸びている。

 ケールは、豪奢な濃紺のビロードの礼服をまとい、かつて私が愛した――今となっては目に刺さるほど白々しい優しい笑みを浮かべていた。

 その隣で、リアが父に腕を取られ、ゆっくりと泳ぎ進む。眩い金の魚尾には、薄霧のように軽いセイレーン海糸のヴェールがかかっていた。

「海域の諸領主のご列席に感謝する!」父が祭壇の上に立ち、朗々たる声を広場全体へ響かせる。

「長女エラを海神へ捧げ、この海域に平和をもたらす前夜。われらの栄光を未来へ繋ぐため、本日ここに、ケール・ドレイクとリア・セレンの神聖なる結びつきを証し立てる!」

 歓声がどっと弾けた。

 私は石柱に爪を立て、ぎりぎりと抉った。力を込めすぎて爪が折れ、血が滲む。それでも痛みは一切感じなかった。

 彼らは確かに急いでいる。

 私を救うためじゃない。海神に喰われて神の怒りを買う前に、この利害の婚礼を済ませ、ドレイク家という大樹に完全に縋りつくために。

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