紹介
「お姉さまを責めないで……あの人は、生まれつき身の程を知らないの」
衆目の前で、私は海神に捧げる餌にすると決められた。見送りの者すら出すのが面倒だと言わんばかりに。
けれど、重傷のまま引きずられて黒牢へ放り込まれた私を待っていたのは死ではなかった。
現れたのは――海神、その人。
尾を伝う血を拭い、彼は囁く。
「いい。存分に罪を重ねさせろ。やがて連中は膝をつき、おまえに赦しを乞うことになる」
チャプター 1
アキローナ――人魚の古都は、今夜に限って不気味なほど静まり返っていた。
海神様の怒りを鎮めるため、セレン一族は王女を一人差し出さねばならない。それは逆らえぬ神託。
父、スティーブン・セレンは無表情のまま、くじ石の入った巨大な鉢へ手を差し入れた。
呼吸が止まりそうになる。
自分の名が呼ばれるのが怖い。けれど、私でなければ――妹だ。
「リア」
父の声が広場に響く。
「神に選ばれ、捧げられるのは――リア・セレン」
群衆のあいだから、押し殺した悲鳴が漏れた。
私は弾かれたように首を巡らせ、少し離れたところにいる妹を見た。
リアの顔色が一瞬で抜け落ち、絶望に裂けるような悲鳴を上げる。
胸が凍りつき、私は反射的に彼女へ泳ぎ出した。
「リア……っ」
ドン――!
指先が触れる、その直前だった。
津波のような衝撃が広場の結界を引き裂いた。凄まじい水圧で石柱がへし折れ、巨大な鉢は渦に煽られてひっくり返り、くじ石は深海へ巻き込まれて粉のように散る。
必死に体勢を立て直し、私は水を従えて現れた影を見据えた。
ケール・ドレイク。
海竜族の唯一の継承者で――私が、生涯を誓った恋人。
見慣れたその顔に、張り詰めていた神経がふっと緩む。
昨夜も、彼は優しく私の額に口づけて、ドレイク家の力でこの献祭から私を守ると誓ってくれたばかりだった。
「このくじ引きは無効だ!」
ケールの声。
助かったのだと、私は震える息のまま彼を見た。だが――彼の視線は私を素通りし、しくしくと泣くリアへ落ちていた。
「リアは俺、ケール・ドレイクの未来の妻だ。ドレイク家は、次期当主の正妻を深淵へ送って、あの化け物の餌にするなど許さない」
ケールはリアの前へ泳ぎ、広い肩で、きらめく金の尾を庇う。そうして、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「だが、献祭自体は止められない。部族の平和のためだ」
淡々とした声。
「リアが行けないなら、エラが代わりに行けばいい。海神が欲しいのはセレン家の王女が一人。それが誰かなんて、気にしない」
目の前が白くなる。
「ケール……何を言って――」
私は自分の喉元を指さした。彼の海竜鱗で作られた首飾り。昨夜まで、確かにそこにあった温もり。
「昨日、あなたは……」
「黙れ、エラ」
ケールは苛立たしげに言い捨てた。
「リアは生まれつき繊細で、海域でいちばん大切な真珠だ。――それに比べておまえはどうだ。そのくすんだ尾を見ろ。従う以外に、家に何の価値がある?」
胃の奥がぐらりと掻き回される。
幼い頃から共に育った相手。魂の伴侶だと信じていた男が――ただ、私に眩い外見も誇れる価値もないというだけで、あっさり私を引き裂く暴君のもとへ押しやるのか。
「受け入れない!」
私はぐっと背を伸ばし、寄り添う二つの影を睨み据えた。
「くじ石が壊れたのなら、鉢を用意してもう一度引けばいい! 運命に選ばせるべきよ。あなたみたいな海竜族の偽善者に裁かれる筋合いはない!」
パァン!
乾いた音。
頬に叩きつけられた衝撃で、私はそのまま礁へ叩きつけられた。口の中に鉄の味が広がる。
唇の端の血を拭って顔を上げると、父の目が怒りと失望で揺れていた。
「この冷酷な毒婦め!」
父の声は震えている。
「リアはおまえの実の妹だ! あの子は昔から痛みに弱い。どうして平然と死地へ追いやれる! 慈しみの心は欠片もないのか!」
「痛いのが怖いのは、リアだけなの?!」
涙が堰を切って溢れ出す。
「父上、私だってあなたの娘よ! もし選ばれたのが私だったら……あなたたちは、私を救うために引き直しを求めてくれた?!」
答えはなかった。
周囲の人魚たちの目が、私を見る。まるで理解不能な化け物を見るように。
リアはケールの胸に身を隠し、嗚咽混じりに囁いた。
「お姉さま……私のこと、そんなに憎いの……? お姉さまが私の死を望むなら……私、行く……」
「もういい!」
父は爆発するように怒鳴り、くるりと背を向けた。引き抜かれたのは、棘の骨鞭。
「長姉でありながら妹を慈しむことも知らぬ。族の一員でありながら和平を乱そうとする。家法を執り行え!」
私は礁に押さえつけられ、逃げようもない。
父の骨鞭が振り下ろされ、尾の護心鱗へ正確に引っ掛かった。そのまま――後ろへ、容赦なく引き剝がす。
「あぁぁぁ――ッ!」
血と神経が繋がった鱗が、生きたまま引き抜かれる。皮膚が裂け、肉が開き、赤い血が海水にじわりと滲んでいく。
ケールは冷えた目でその光景を見下ろしていた。むしろ親切ぶってリアの目を手で覆い、この「残酷」な場面を見せないようにして。
最後の力が体から抜け落ちたとき、私は血の海に崩れた。視界が滲み、遠のく耳に残ったのは、氷のように冷たい父の命令。
「深淵の黒牢へ入れろ。献祭の日まで、誰にも会わせるな。薬も与えるな。――海神の御前へ、生きたまま差し出せ」
胸の奥の何かが、砕け散った銀鱗と一緒に――ぷつりと、音もなく切れた。
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