第3章
自分がどうやって、あの影の中から泳ぎ出てきたのか分からない。尾骨を貫く激痛が容赦なく神経を引き裂き、傷口がまた裂けて、真っ赤な血の筋が海水に目に痛い軌跡を引く。それでも私は、祭壇の上に並ぶ二人の壁人から目を逸らさなかった。
「私が食屍鮫に攫われたって知らせ、届いてたんでしょ?」
しゃがれた声が、祝祭の広場に不意に突き刺さる。
音楽が、ぷつりと途切れた。参列者も長老も、武装した護衛たちも、一斉に振り返る。
私はよろめきながら祭壇へ泳ぎ、ケールを刺すように睨んだ。
「あなた、知ってたよね。私が黒牢で攫われたことも、いつ死の海溝へ引きずり込まれて、引き裂かれてもおかしくないことも! なのに……なのに、どうしてここで結婚式なんて!」
一瞬の戸惑いのあと、ケールの顔に罪悪感は欠片も浮かばなかった。むしろ、露骨な嫌悪を滲ませて眉を寄せる。
「エラ、今この場で発狂するのやめられないのか?」
当然だと言わんばかりの声音が、背筋を凍らせた。
「お前が本当に食屍鮫に食われたら、供物の枠が空く。そしたらリアが代わりに死ぬことになるだろ。そんな危険、背負わせられるか。結婚式は今すぐやる。ドレイク家の紋章があれば、リアは完全に守られるんだ」
頭の中が、ぶわっと唸った。
あまりにも必死なのは、私を救うためじゃない。私の死が、彼の愛する宝物に飛び火するのが怖かっただけだ。
「お姉さま、ケールを責めないで……」
リアがケールの背後から顔を覗かせた。整ったその顔には、いかにも哀れを誘う涙。か弱く彼の広い胸に身を寄せて、囁く。
「お姉さまが不幸なのは、お姉さま自身のせいでしょう? どうしてその不幸で、私の一生で一番大切な日を壊そうとするの……いつもそう。私が幸せになるのが許せないんでしょう……」
「いい加減にしろ、エラ!」
傍らの長老ソーエンが、杖で珊瑚礁をごん、と叩いた。
「お前は平凡で、ひ弱。ケールが海竜族の未来の統帥として、お前を一度でも見てやっただけで身に余る光栄だ。リアを選ぶのは当然! 感謝も知らん子だ。ドレイク家が我らを庇護し続けてくれるのは、ひとえにリアの献身があるからだ!」
「献身……?」
怒りが極まって、逆に笑いが漏れた。涙が大粒で、止めどなく落ちる。
「リアが、何を捧げたの? 献祭に行くのは私なのに!」
「なら自分の価値を弁えろ!」
別の年長者が容赦なく嘲る。
「見ろ、お前の尾は色も冴えない。深海の魔力が一欠片もない。そのお前が、リアに勝てると? リアの鱗は黄金のように輝く、アキローナの真珠だ! お前には何の価値もない。献祭など、お前が行くのが一番相応しい!」
かつて私を見守ってきたはずの同族たちが、最も毒のある言葉で私を辱めの柱に打ちつける。血と傷にまみれた私を見ても、そこに憐れみはない。あるのは、権力者同士の縁組を台無しにした者への露骨な嫌悪だけ。
屈辱と絶望が、冷たい海水みたいに肺の奥へ流れ込んだ。
息ができない。優しさと従順でどうにか取り入ろうとしてきた家族が、利益の前では、取り繕うことすら放棄したのだ。
「捕らえろ!」
父スティーブンが命じた。
「逃げる気なら、情けはかけん。鎖海石で作った鉄檻を持て。閉じ込めろ、尾骨を折れ。余計な真似をさせるな。海神の怒りに触れる」
屈強な護衛が数人、私の背後に回り、腕をねじ上げる。重く粗い黒鉄の檻が引きずられてきた。護衛が精鋼の棒を振り上げ、もともと重傷の私の尾へ狙いを定める。
「やめて……放して!」
必死に暴れても、弱り切った身体ではどうにもならない。
鉄棒が尾骨を砕く、その寸前――
轟っ。
海域全体の気圧が、ずしりと沈んだ。全員の鼓膜が同時に鋭い耳鳴りを起こし、広場の外周を覆っていた結界が、ぱきぱきと音を立てて砕け散る。
深淵のように暗く、それでいて無上の神性を帯びた紺碧の光が、刃のようにアキローナの海水を裂き、祭壇の中央へ真っ直ぐ叩き落ちた。
私を押さえていた護衛たちは、凄まじい威圧に吹き飛ばされる。生鉄の檻ごと、巨大な水圧に押し潰され、歪んだ廃鉄へ変わった。
静寂。古城全体が、魂ごと震え上がるような静寂に沈む。
息が詰まるほどの紺碧の神威の中で、アレス・テッドが、ゆっくりと姿を現した。
彼が場を一瞥した瞬間、族長スティーブンもケールも、全員が魂の底から湧き上がる恐怖に押し潰され、海底へひれ伏した。
「せっかく今日が婚礼だというなら……」
水流に乗って、アレスの声が広がる。彼は無造作に袖口を整えた。
「この『供物』を要求した海神として、祝いの品も用意してきた」
震える虫けらどもには目もくれず、すらりとした指先を持ち上げ、祭壇へ続く高い階段に向けて、空を打つように一点。
「――ああああっ!」
ケールが、喉を裂くような悲鳴を上げた。
彼の周囲に渦巻いていた、誇り高い海竜族の控水の力が、血脈を抜かれるみたいに、アレスの指先へ引き剥がされていく。形のない水気となって霧散した。かつて傲然と強大だったケールは、背骨を失った芋虫のように地に丸まり、苦しげに、胆汁の混じった苦い海水をごぼごぼと吐き出す。
「ケール!」
リアが叫んで飛びつく。しかし次の瞬間、その叫びは恐怖に変わった。
アレスの冷え切った視線が、リアが誇る金色の魚尾へ落ちる。神力が奪われるにつれ、煌めく黄金の輝きが、強酸で焼かれるように一気に褪せた。黄金色に光っていた鱗は、目に見える速さで枯れ、最後には吐き気を催すほど下卑た灰青色へと変わり果てる。
「私の尾……! 私の光……いやっ!」
リアは荒れた凡庸な尾を撫で回し、崩れ落ちるように地面を転げた。
さっきまでリアの美貌とケールの強さを讃えていた年長者たちは、今や泥砂に額を押しつけ、息をすることすら恐れている。
アレスは、その滑稽な騒ぎには興味を示さない。散乱と混乱の上を踏み越え、真っ直ぐ私の前へ来た。彼の背には、聞いただけで震え上がる深海の絶望がある。なのに私へ向ける眼差しからは、陰冷さだけが不思議なほど削ぎ落とされていた。
彼はゆっくり身を屈め、震えっぱなしの私へ、海の生死を握るその手を差し伸べる。
「エラ・セレン」
アレスは私の瞳を覗き込み、溜息のように低く告げた。
「今、見えたか?」
私は呆然と、差し出された手を見て、それから泥砂に這いつくばって命乞いをするような『家族』を見た。
「俺は奴らに機会を与えた。だが、奴らはお前を捨てた」
金と蒼が混じるその瞳に、抗いがたい誘惑が灯る。
「なら、もういらないだろ。――お前は、俺と来るか?」
