第4章

 震える手を、アレスの掌へそっと預けた。

 彼の指がきゅっと閉じた瞬間、あたたかく、それでいて圧倒的に力強い暗い潮流が、傷だらけの私の身体をやさしく持ち上げた。

 水が私たちの周りを渦巻く。私は最後に一度だけ振り返り、アキローナの中央広場を見た。

 そこは、かつて私が「家」と呼んでいた場所。なのに今は、瓦礫のような惨状と、苦痛にうめくケール、そして灰色にくすんだ魚尾を抱えたまま地面にへたり込むリアだけが残っていた。

 アレスは私を連れて、北大西洋でもっとも深い海溝へと潜っていく。

 道中ずっと、神経が張り詰めたままだった。海神の国は修羅の場――捧げられた者たちの白骨が積み上がり、海水は腐った血の臭いで濁る。そんな伝承を、私は疑いもしなかった。

 けれど。

 水流の結界が、私たちの前でゆっくりとほどけたとき。目の前の光景に、思わず息を呑んだ。

 白骨はない。死もない。絶望の叫びもない。

 そこにあったのは、壮麗にして荘厳な――「深淵聖廷」。

 黒曜石の巨大な建造物が、淡く発光する古代の珊瑚礁と溶け合い、まるで海底に眠るゴシックの大聖堂のようだった。周囲の海水には、地熱のぬくもりが溶けていて、胸の奥がふっとほどける。

 そして、さらに私を震わせたのは――ここにある『秩序』だった。

 アキローナでは、強い捕食者が弱い種族を踏みにじるのが当たり前だったのに。聖廷の広場では、光る水母の群れと巨大なイタチザメが同じ海藻林をすり抜け、争うどころか、言葉にできない調和と均衡を保っている。

「ここ……」私は呟いた。尾骨の痛みすら忘れたまま、「どうして……」

「意外か?」耳元でアレスの声が落ちた。

 彼は泳ぐ速度を緩め、私と並ぶ。

「アキローナの支配者どもは、暴政と嘘で権力を飾り立てる。そのために、嗜血で残虐な海神の像をでっち上げた。皆を従わせるためにな」

 アレスは私を聖廷の内殿へ導き、柔らかな海絨が敷かれた真珠石の長椅子に座らせた。私は居場所のなさに俯き、自分の銀青の魚尾を見つめる。傷痕がまだらに走り、この眩い聖廷の中では、いっそう冴えない色に見えた。

「私は……ここにいるべきじゃない」指をきつく絡める。過去の影が蔓のように心臓へ巻きつき、息が苦しくなる。

「私は、価値のない普通の人魚です。リアみたいに輝く鱗もない。強い魔力もない……あなたの供物にすら、なれない」

「普通?」

 アレスが、すっと距離を詰めた。

 長身の彼が、私の前で片膝をつく。金と青が絡み合う深い双眸が、逃げ場を許さないほど真っ直ぐに私を捉える。

「おまえを『普通』と呼ぶのは、アキローナの傲慢が、奴らを盲目の愚か者にしたからだ」

 アレスはわずかに身を乗り出し、拒めない威厳を帯びた声を――不思議なほどやさしく落とした。

「エラ。おまえの鱗がくすんでいるのは、価値がないからじゃない。純粋なエネルギーを受け止める器だからだ。おまえは役立たずじゃない。北大西洋でも極めて希少な――『治癒共鳴者』だ」

 胸が跳ね、鼓動が一拍遅れる。

「治癒……共鳴者?」

「おまえは潮の感情を感じ取れる。深海の魂と共振できる」低い声が、静かに断言する。

「それが海で最も尊い才だ。ケールの、災いしか呼ばぬ蛮力とは比べものにならない」

 そのとき、内殿の重い石扉がぎい、と押し開かれた。

 巨甲の海亀の衛兵が二名、担架を運び入れてくる。そこに横たわっていたのは、銀鰭の幼いザトウクジラだった。側腹が深海の捕鯨銛で裂かれ、くぐもった呻きが漏れる。血がじわりと広がり、周囲の水を赤く染めていく。

「やってみろ、エラ」

 アレスは立ち上がり、私に近づくよう促した。

 息が浅くなる。あの真っ赤な傷を見つめた瞬間、数時間前の光景が脳裏を裂いた。父が骨鞭を振るい、私の鱗を引き剥がしたあの感触。周囲の嘲笑。ケールの冷たい宣告。

「む、無理……」私はどうにか手を伸ばす。だが指先が傷の縁に触れた途端、恐怖が毒蛇みたいに神経へ噛みついた。

 集中できない。手が激しく震える。掌でかすかな光がちろりと瞬いても、怯えに飲まれてすぐ消えた。触れられたザトウクジラが、苦痛にびくりと身を震わせる。

「ごめんなさい!」感電したみたいに手を引っ込め、私は長椅子の端へ縮こまった。はあっ、はあっと荒い呼吸。涙がまた視界を滲ませ、根深い劣等感が私を沈めていく。

「できない……私は……ダメなんです。父の言った通り。全部、台無しにする……」

 私は目をぎゅっと閉じ、アレスの怒りを待った。アキローナでは、弱さを見せれば叱責か平手打ちが返ってくる。それが当たり前だった。

 けれど。

 痛みもない。罵声もない。

 影が落ちる。アレスが、もう一度私の前に膝をついた。彼は震え続ける私の両手を、そっと包み込む。

「俺を見ろ、エラ」

 震えながら目を開くと、金青の深淵に落ちた。そこには裁きがない。あるのは、底なしの包容と、私が知らなかった強さ。

「おまえは今、アキローナにいない」

 アレスの親指が手の甲をゆっくり撫でる。熱が伝わってくる。

「ここでは誰もおまえを傷つけない。失敗していい。弱くていい。だが、自分を否定するな。呼吸を感じろ。俺の鼓動を感じろ」

 私は彼に導かれるまま、ゆっくり海水を吸い込んだ。胸の奥を締めつけていた恐怖が、その安定した力の前で、少しずつ溶けていく。

「もう一度だ。恐怖で思い出すな。魂で感じろ」

 アレスは私の手を握ったまま、ザトウクジラの傷へと静かに導く。

 私は目を閉じる。掌の下にある、弱いけれど確かに脈打つ生命の律動。私の心臓が、それに合わせていく。やがて尾骨の奥から、奇妙な感覚がせり上がってきた。

 暗く鈍いとされてきた銀青の魚尾が、ふわりとやわらかな――聖なる流光を放ちはじめる。

 光は腕を伝い、掌へ集まった。私はあたたかな春の潮になったみたいに、その壊れた身体を包み込む。

 光がすっと引いたとき、私は目を開けた。

 信じられない奇跡が起きていた。

 側腹の恐ろしい裂傷は完全に塞がり、薄い銀色の痕だけが残っている。幼い巨獣は、澄みきった長い鳴き声を楽しげに響かせ、巨大な頭で私の肩にすり寄せてきた。

 衛兵たちが畏敬の囁きを漏らし、次々と頭を垂れた。そして聖廷でもっとも格式高い騎士礼を捧げる。

 私が海神に連れ帰られた『戦利品』だからではない。

 「共鳴者」へ、心からの敬意を払っているからだ。

 私は呆然と自分の手を見つめ、涙が音もなく溢れ落ちた。

 顔を上げ、アレスを見る。

 彼は私の傍らで半跪したまま、いつも冷酷で威厳に満ちたはずの顔に、ひどくやさしい笑みを咲かせていた。

「おかえり、俺の共鳴者」

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