第2章 お前を殺してやる!
手術室は、異様な沈黙に沈んだ。
数拍の静寂のあと、神谷彩夏がぎらりと顔を上げる。残った力をすべて燃やし尽くす勢いで、菅野詩音へ飛びかかった。
菅野詩音は、まだ反撃できるとは思っていなかったのだろう。どんっと押し倒され、よろめいた背中を冷たい器械棚にしたたか打ちつける。
「償えぇぇ!!」
彩夏は喉を裂くように叫び、両手で詩音の首を絞め上げた。牙を剥くように顔へ噛みつこうとする。まるで命を賭けた獣の襲撃だ。
「きゃあっ! 狂ってる! 引き離して!」
詩音が悲鳴を上げる。頬は灼けるように痛み、喉は締まり、視界がじわりと黒く滲んだ。
医師と看護師がようやく我に返り、慌てて飛び込む。引き剥がし、押さえつけ、何人がかりでやっと、鬼気迫る彩夏を詩音から引き離した。
床に押さえつけられても、彩夏は詩音を睨み据えたまま離さない。喉の奥で「ひゅっ、ひゅっ」と息が鳴る。瀕死の獣、そのもの。
菅野詩音は首の赤い痕を押さえ、驚愕と怒りで顔を歪めた。丹念に貼り付けていた仮面が、音を立てて砕け散る。露わになったのは、醜悪な怨毒だった。
「神谷彩夏……この狂犬!」
詩音はハイヒールの音を響かせて近づき、尖った踵を彩夏の手の甲へぐっと踏み込む。
そして、二人にしか届かない声量で、毒を塗るように囁いた。
「ここで私に噛みついてる暇があるなら、上の階で寝てる『可愛い妹』でも見に行けば?」
彩夏の動きが、ぴたりと止まった。
妹――清美?
詩音は、その表情の変化を愉しむように、ゆっくりと言葉を重ねる。瞳の奥には悪意がたっぷり滲んでいた。
「まだ知らないの? お姉ちゃんの仇討ちのためにね、承吾はずいぶん手間をかけたの。チンピラを何人か用意して、妹ちゃんを『おもてなし』させたんだって」
「全身、まともな肉が残ってないらしいよ。想像するだけで胸くそ悪いよねぇ」
彩夏の呼吸が止まった。血が逆流する。耳鳴りがして、詩音の声が遠のく。
それでも詩音は、楽しげに続けた。
「妹ちゃん、意外と気が強くてさ。ボロボロの身体で屋上まで這って――それで……『ドンッ!』」
指先で落下の仕草をなぞり、残酷に笑う。
「7階から飛んだの」
そして、わざとらしく首を振った。
「でもね、死にきれなかった。今は集中治療室。うまくいっても植物状態だって。かわいそ。まだ十八なのに」
「……嘘……そんな……」
彩夏の口の中に、血の味が広がる。声は震え、言葉の端から泡みたいに血が滲んだ。
神谷承吾が自分を憎んでいるのは分かっていた。けれど清美は、何も関係ない。両親を早くに亡くし、姉妹だけで寄り添って生きてきた。清美は、この世界で最後に残った温もりだったのに。
詩音は鼻で笑い、蛇のような声音で囁く。
「連れてってあげようか? この病院の最上階の集中治療室。花みたいにきれいな妹ちゃんが、今どうなってるか――しっかり見てきな」
彩夏は医療スタッフの手を振りほどくと、詩音を一度も振り返らず、ふらふらと手術室を飛び出した。
下半身から血が流れ続け、病衣を赤く染める。廊下の床に、生々しい跡が引きずられていく。
「清美……待ってて……お姉ちゃんが……行く……!」
驚愕の視線を振り切り、エレベーターへ駆ける。最上階のボタンを叩きつけた。
上昇する一秒一秒が、皮膚を剥がされるように長い。
扉が開いた瞬間、彩夏は転がり込むように集中治療室へ向かい、ガラス越しに見た。
ベッドの上。管に繋がれた神谷清美。
瞳は閉じ、あの澄んだ顔色は失せていた。頭には厚い包帯。露出した首元と腕に、紫色の痣が点々と残る。機械が一定のリズムで冷たく鳴り、かろうじて命の灯だけを繋いでいる。
彩夏の脚が崩れ、ガラスにしがみつくように倒れ込んだ。爪がガラスを引っかき、きい、と耳障りな音を立てる。
「ごめん……ごめん……お姉ちゃんのせい……!」
額を冷たいガラスに何度も打ちつけた。涙が血の汚れと混ざり、頬を伝って落ちていく。声にならない嗚咽だけが漏れる。傷ついた獣の哭き声。
――間違っていた。致命的に。
守れると思っていた。けれど神谷承吾の憎しみを甘く見た。菅野詩音の毒を、見誤った。
我が子は引き裂かれ、冷たい残骸になった。たった一人の妹は人ではない辱めを受け、感覚も意識も奪われた。
胸の奥で、憎悪が溶岩のように煮えたぎる。
彩夏はゆっくりと顔を上げ、ガラスの向こうへ誓う。
「清美……安心して。あなたを傷つけた人間……一人残らず、許さない」
「必ず……血の代償を払わせる」
瞳から最後の温度が消えた。残るのは、底なしの憎しみと冷たい決意だけ。
――神谷グループ本社、社長室。
神谷承吾は窓の前に立ち、眉間に消えない陰りを刻んでいた。
神谷彩夏が意識を失う直前に言った言葉――「私は裏切ってない」――が、呪いのように耳の奥にこびりついて離れない。
だがすぐに、菅野雅子の惨死の光景、菅野家の両親の泣き叫ぶ糾弾、ホテルで見た彩夏と男の姿が、すべてを上書きした。
苛立ちに、ネクタイを乱暴に引く。
その瞬間――。
バンッ!
扉が乱暴に開いた。
振り向くと、神谷彩夏がよろめきながら入ってくる。
血に乾いた病衣。乱れた長髪が蒼白な頬に貼りつき、裸足の足裏は擦りむけ、淡い血の足跡を残していた。まるで血の沼から引き上げられた幽霊。
ただ、その目だけが異様に明るい。憎悪の炎を燃やして。
神谷承吾の瞳孔がわずかに縮む。胸の奥が、理由もなくざわついた。なぜここに――本来なら病院で休んでいるはずだ。
だが口から出たのは、冷たい声だった。
「何しに来た。出ていけ。お前の顔は見たくない」
彩夏は聞こえていないかのように、一歩、また一歩と近づく。
そして口を開いた。擦れた声が、地獄の底から這い上がるように響く。
「神谷承吾……私がこの人生でいちばん後悔してるのは、あなたを愛したこと」
承吾は眉を深く寄せた。
「私はあなたが憎い。血を啜って、肉を喰らって、骨まで砕いて灰にしたいくらい!」
言い終えるより早く、彼女の右手が閃く。
冷たい光を放つ果物ナイフ。
全身の力を込め、承吾の胸へ突き立てた。
承吾の瞳孔が一気に縮む。反射的に身を翻した――が。
「ぐっ!」
刃が肉を裂き、鮮血が高級なスーツを赤く染めた。
神谷承吾は短く呻き、痛みに瞳の凶気が跳ね上がる。
