第5章 彼女が目を覚ましたよ、会いに行く?

神谷承吾は後ろにいたせいで、視界は菅野詩音にすっぽり塞がれていた。中で何が起きているのか、彼にはまったく見えない。

そして菅野詩音のあの一声が、この出来事に決定的な「色」を付けた。

だから彼女が身をどけ、神谷承吾が中へ入った瞬間に目にしたのは、衣服は乱れ、髪もぐしゃぐしゃの神谷彩夏と――呆けたように突っ立った須藤太郎だった。

須藤百合はというと、顔面蒼白で脇に立ち、須藤太郎の腕を引っ張って「早く出て」とでも言いたげにしている。

周知のとおり、須藤太郎はバカだ。知能は五歳児にも及ばない。

だから、菅野詩音が叫んだ内容は、神谷承吾の耳には「筋が通っている」ようにも聞こえてしまった。

神谷承吾は入口に立ったまま、顔色を落とす。沈みきった表情は、いまにも水が滴りそうだった。

須藤百合はそれを見るや、媚びと怯えを無理やり混ぜた笑みを貼り付ける。

「か、神谷様……どうしてこちらに? 私はただ彩夏の様子を見に来ただけで……この子、気が強くて私に口答えを……」

須藤太郎はベッド脇でぼんやり立ち尽くしていた。どうしていいかわからない、といった顔。目の奥には卑しい色も、荒々しさもない。何もない。

俯いた姿は、叱られたのに理由も分からず固まる子どものようだった。

菅野詩音は左右に目を走らせ、いっそう痛ましげな声音になる。

「承吾、彩夏さんが辛いのは分かるけど……で、でも、こんなふうに自分を投げ捨てちゃだめよ。もし外に漏れたら……あなたの顔も、神谷家の顔も、どうなるの……?」

「出ていけ」

神谷承吾の声は低かった。だが、それだけで背筋が冷える。

須藤百合は呆気に取られる。

「神谷様、私は――」

「出ていけと言った」

神谷承吾は冷ややかに彼女を見据えた。まるで皮膚を一枚剥ぎ取るみたいな視線で。

「息子を連れて、今すぐこの病室から消えろ。もう一歩でも踏み込んだら……この世に生まれたことを後悔させる」

須藤百合はびくりと震えた。金に汚く意地も悪いが、それでも神谷承吾がどんな男かは知っている。

それ以上は一言も出ず、途方に暮れた須藤太郎の腕を乱暴に掴み、みじめに病室を出ていった。

菅野詩音が柔らかく取りなす。

「承吾、そんなに怒らないで……彩夏さんだって……」

「お前も出ていけ」

神谷承吾は遮る。視線は病床から外れない。

菅野詩音は唇を噛み、悔しさを隠しきれない顔をしたが、それでも従順に。

「……分かった」

そう答えて、そっと扉を閉めた。

病室には、また二人きり。

神谷彩夏は苦しげに上体を起こし、引き裂かれたように乱れた病衣を整える。

頬はひりつき、頭皮も引きちぎられそうに痛む。けれど――そんなもの、いま胸の内を焼く屈辱に比べたら、どうでもよかった。

神谷承吾が一歩ずつベッドへ近づく。歩みのたびに圧が増していく。見下ろす視線が、息を奪う。

「彩夏……見せてくれるな。そこまでボロボロで、まだ男を引っかける気か。バカまで相手にするとはな」

神谷彩夏は怒りで全身が震えた。

「神谷承吾、目が見えないの? さっき私が、あいつらに何をされたか――分からなかったの?!」

神谷承吾は鼻で笑う。

「俺が見たのは、バカと……衣服を乱したお前だけだ」

「どうせまた作り話だろ。『あのバカはバカのふりをしてた』とか、『私は無理やりだった』とか」

「装ってたのよ! さっきの目つき、バカの目じゃなかった。あの人がうちに来たばかりの頃も――」

「もういい」

神谷承吾が叩き切る。目には露骨な苛立ち。

「彩夏、世界中が自分を陥れようとしてると思ってるのか? 菅野詩音も、俺も、そして公認のバカまで『演技』ってわけだ。お前に触れるために? 自分が何様だと思ってる」

いきなり手が伸び、顎を掴まれた。無理やり顔を上げさせられ、視線を合わせさせられる。

「今のお前を見ろ。半死半生でここに寝て……俺以外に誰が見舞いに来る? 誰がわざわざ手間をかけて、お前を罠にかける価値がある?」

神谷彩夏は、目の前の顔を見つめた。

骨の髄まで愛した顔。なのに今は、恐ろしく、知らない男みたいに陌生で――憎い。

「そんなに金があるなら、眼科にでも行ったら?」

神谷承吾の眉間が深く寄る。

神谷彩夏は冷えた声を続ける。

「菅野詩音があなたの前で大げさに泣いて騒いで……あんな白々しい芝居、見抜けないの?」

「須藤太郎が目の前でバカのふりをしても、あなたは信じる」

彼の目を射抜き、嘲るように言った。

「それとも、見抜けないんじゃない。見ようとしないだけ。あなたは傲慢すぎるの。最初から自分の中で結論を決めて、そこに全部押し込む。自分の判断だけが正しくて、現実を見る気なんてない」

神谷承吾がわずかに怔む。指の力が緩んだ、その隙に神谷彩夏は彼の手を振り払った。声が跳ね上がる。

「図星でしょ? あなたの中では私は、悪毒で、淫らで、恥知らずな女。そう思ってれば楽だものね。菅野雅子の死を、全部私のせいにできる」

「それで『復讐』って旗を立てて、正々堂々と私を憎んで、折檻して……!」

「黙れ!」

痛いところを突かれ、神谷承吾の顔が歪む。

「彩夏、適当なことを並べれば罪が消えると思うな。雅子がどうやって死んだか……お前が一番分かってる!」

「分からない!」

神谷彩夏は怒鳴り返し、堪えきれず涙が溢れた。

「私は知らない! どうして死んだのか、ほんとに知らない! あの日、犯人は金を受け取ったら解放すると言った! なのに、どうして最後はああなったの……? 神谷承吾、私が殺したと言うなら証拠を出して! せめて、納得して死ねるようにしてよ!」

神谷承吾の呼吸が詰まる。

証拠?

そんなもの、どこにある。あると言えるのは、菅野家の両親の涙ながらの糾弾と、曖昧な犯人の供述、そして異様に早く執行された死刑。

――それに、神谷彩夏の自分への恋情。

神谷承吾にとっては、それで十分だった。それだけで彼女を憎み、報復する理由になってしまった。

涙で顔をぐしゃぐしゃにした神谷彩夏を見ていると、なぜか彼女が少しだけ別人に見える。胸の内がざわつき、苛立つ。

彼はもう相手にしない。扉を乱暴に閉めた。

バンッ!

衝撃で病室のガラスがびりびりと震え、低い唸りが残る。

神谷彩夏はベッドに半身を預けたまま、しばらく動けなかった。

涙が一滴、また一滴。首筋へ落ちていく。

彼女は手を上げ、乱暴に頬を拭った。

泣くな。

彩夏、泣くな。

……

それから半月。

リハビリ担当の指導と介助のおかげで、身体はようやく持ち直してきた。

ベッドに手をつき、ゆっくりなら歩ける。腰にはまだコルセット型の補助器具が必要だったが、あの鈍い痺れと痛みを、絶え間なく噛みしめる日々は終わりつつあった。

その日の午後。彩夏はベッド脇の手すりを握り、病室の中を少しずつ移動していた。

神谷承吾が、ふいに入ってくる。

神谷彩夏はまぶたすら上げなかった。この男を見れば、胸の底の憎悪が制御できなくなる。

神谷承吾は、彼女が歯を食いしばって耐えている様子を見て、少し黙ってから言った。

「母さんが目を覚ました」

神谷彩夏の足が止まる。顔を上げた。瞳がはっと見開かれ、次の瞬間、涙がじわりと溜まっていく。

神谷承吾とは違う。彼の母親――本当なら、彼女も「お母さん」と呼ぶべきなのかもしれない。けれど神谷彩夏はずっと、理恵さんと呼んできた。理恵さん、と。

父を亡くしてから、唯一、温もりをくれた人だった。

それなのに、呼び方を変えて「お母さん」と言おうとした、その矢先。前触れもなく倒れ、脳梗塞で意識を失った。

救命救急室で命こそ繋いだが、昏睡は続いた。

長い長い昏睡は、彩夏の希望を削り取り、絶望に変えた。そんな理恵さんが――目を覚ました。

「ほ、本当に……?」

神谷彩夏の声は震え、まだ信じきれない。

「ああ。午前中に。一度起きたが、身体が弱ってて、すぐ眠った」

神谷承吾の口調は、気づかぬうちに少し和らいでいた。

「医者が言うには、しばらくは安静だ。刺激は厳禁らしい」

神谷彩夏は堪えきれず、前のめりに訊く。

「会いに行っていい? わ、私……一目見るだけでいい。話さなくてもいいから……」

神谷承吾は断るつもりだった。だが彼女の切実さに、言葉が変わる。

「長居はするな」

それから、釘を刺すように目を細めた。

「余計なことは言うな」

母親が神谷彩夏を実の娘のように可愛がっていたことくらい、彼も知っている。

「分かってる」

神谷彩夏は小さく頷いた。

神谷承吾を憎んでいても、この件で愚かな真似はしない。そんなことは、分かっていた。

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