第6章 彼女は理恵さんを殺したい!
神谷彩夏は壁に手をつきながら、病院の長い廊下をゆっくりと進み、別棟の最上階にあるVIP病室へ向かった。
神谷承吾が、その背後にぴたりとついてくる。本来なら車椅子を押してきて、彼女を座らせるつもりだったのだろう。
けれど彩夏は、氷みたいに冷えた目でそれを見て言った。
「私が車椅子に乗ってるのをお母さまが見たら、聞かれるでしょ。そのとき、何て答えればいいの?」
承吾は、全身に棘をまとったみたいな彼女の態度が心底気に入らないらしく、冷たく吐き捨てた。
「好きにしろ」
その瞬間、彼のスマホが鳴った。出た途端、承吾の顔色がみるみる変わっていく。短く応じる。
「……分かった。もういい」
通話を切ってから、彩夏へ視線を投げた。
「先に行ってろ。あとで行く」
彩夏だって、もともと彼の顔など見たくなかった。
神谷理恵が入っている病室は、彩夏の病室よりもさらに静かだった。廊下には厚い絨毯が敷かれ、足音まで吸い込まれる。
漂っているのは消毒液の匂いではない。かすかなジャスミンの香りだった。
彩夏はタイミングが悪かった。入室したとき、理恵はちょうど薬を飲み終えたばかりで、再び眠りに落ちていた。
ベッドの上で、白髪の神谷の大奥様が目を閉じ、浅く、ゆっくりと呼吸している。
痩せた。あまりにも。彩夏の記憶にいる、黒髪で、瞳に光を宿した上品な貴婦人の面影は遠い。
その姿を見た途端、胸の奥にしまっていた記憶が、堰を切った。
幼い頃、彼女は清美と一緒に神谷家へ迎え入れられた。笑い声の絶えない日々。
慈しむように抱きしめられ、振り向いて清美も抱き寄せられて——。
「かわいそうにね。須藤清志さんは、あんなふうに逝ってしまって……これからはうちで暮らしなさい。誰にもいじめさせないわ」
「彩夏、この服を着てみて。きれいでしょう。まるでお姫様みたい」
「承吾、あなたはお兄ちゃんなんだから。学校では彩夏をちゃんと見てあげなさい。いいわね」
「彩夏、怖がらなくていいのよ。つらいことがあったら、私に言いなさい。私が叱ってあげる」
思い出が多すぎて、喉の奥がつんと痛んだ。鼻先が熱くなり、涙が勝手にこぼれ落ちる。
彩夏はベッドの脇に立ったまま、声を殺して呟く。
「理恵さん……あなたがいないと、みんな私をいじめる。私たちを……」
「清美も、ここに寝てるの。先生は言った……もう、二度と目を覚まさないって」
声は蚊の羽音ほどに小さい。理恵が目を覚ましたとしても、きっと届かない。
それでも、抑えきれない悲しみと痛みだけは、山みたいに重く胸を押し潰した。
「私……あいつが憎い。妹をあんなふうにして、私たちの子どもまで……」
言葉が喉で引っかかる。唇が震え、吐息が掠れた。
「腕なんて、あんなに小さかった。まだ、この世界を目で見ることもできなかったのに……私、ほんとに……ほんとに憎い」
「殺したい。腕も脚も切り落として——でも……でも、あいつは……理恵さんの息子で……私……」
「息子だろうが、何だろうが」
不意に落ちた声は、彩夏の泣き言とは比べものにならないほど鋭く、雷みたいに空気を割った。
彩夏の身体がびくりと強張る。慌てて頬の涙を拭い、振り返った。
瞳に溜まった水気が、みるみる冷えていく。痛みは凍り、冷たさに変わった。
菅野詩音が、果物の皿を手にして入ってきた。くすり、と笑う。
「そんな顔しなくていいじゃない。理恵さん、薬を飲んだばかりよ。大声でしゃべろうが、雷が落ちようが、起きないわ」
彩夏は息をのむ。
「……あなたが、やったの?」
「何言ってるの。お薬は先生が出したものでしょ」
詩音は柔らかく微笑む。
「私がそんなことするわけないじゃない。するとしたら——あなたの役目よ」
心臓が喉元まで跳ね上がった。彩夏は反射的にベッドの前へ立ち塞がる。
「何する気? 出ていって。今すぐ、ここから出て!」
詩音は果物を脇に置き、やれやれというふうに首を振った。彩夏が聞き分けのない子どもであるかのように。
「そんな言い方しないで。承吾、最近会社が忙しいの。私が代わりに親孝行してあげないと」
「それより、あなた。まだ治りきってないんじゃない? 顔色が悪いわ。理恵さんに病気をうつしたら大変」
声音はどこまでも優しいのに、その一語一語が背筋を冷やした。
彩夏は詩音を睨み据える。
「菅野詩音。ここには誰もいない。誰に芝居してるの?」
「あなたの汚い腹の中なんて、他の人は知らなくても、私は知ってる。出ていって。ここを汚さないで」
詩音はまた笑った。悪意と嘲りが、口元から零れる。わざと声を落とし、彩夏の耳へ寄せて囁く。
「私が汚してる? 汚いのは、どっち?」
「男に弄ばれてボロボロになった妹——須藤清美?」
「それとも、腐った肉の塊から生まれてきた、あんたみたいなクズ?」
頭の中で、ぶわっと音が鳴った。
妹の蒼白で傷だらけの顔。血に塗れた、幼い残骸。視界が一気に揺れる。
次の瞬間、彩夏は理性を手放していた。
「——っ!」
バシンッ、と乾いた音。彩夏の平手が詩音の頬を打ち抜く。
力が強すぎて、掌の感覚が痺れた。
詩音の顔が横に弾ける。頬はみるみる赤く腫れ上がった。
けれど彼女の目には、怒りよりも先に「待っていた」とでも言うような凶い光が走った。
彩夏は打った勢いで身体が前へ傾く。
その隙を逃さず、詩音が神谷理恵の酸素チューブへ手を伸ばした。
彩夏の瞳孔がきゅっと縮む。息が止まりそうだった。怒りを上回る恐怖が、瞬時に全身を支配する。
「やめて!」
叫びながら飛びついた。
だが詩音は、するりと手を離し、魚みたいに身をかわしてベッド脇へ滑り落ちる。
彩夏は勢いを止められず、伸ばした手が反射で酸素チューブを掴んでしまった。
——だめ……!
彩夏は腰の痛みも無視して足を踏み替え、掴んだ手を無理やり横へ逸らす。
逃がした先にあったのは、脇の金属棚。
そこには、詩音がさっき果物を剥くのに使っていたナイフが置かれていた。
ぐさり、と。
彩夏の手が刃に当たり、皮膚が裂ける。赤い血が、どくりと溢れた。
詩音も予想外だったのか、一瞬だけ目を見開いた。反射的に病室の入口へ視線を投げる。
——どうして? そろそろ承吾が入ってくるはずなのに。
その頃の彩夏は、もう限界だった。刺激されすぎて、壊れかけていた。
手の血が滴っているのに、痛みすら遠い。彼女はナイフを掴み取り、詩音へ向けて突進する。
「殺してやる——!」
詩音の目にも、容赦のない凶光が灯る。
彼女は彩夏の手首をがっちり掴み、逆に押し返した。ナイフの先端を、ベッドの上の神谷理恵へ向けて——。
彩夏が悲鳴を上げる。
ふたりは一瞬で取っ組み合いになり、刃が理恵の身体の周りで危うく揺れた。
押したのがどちらの手なのか、力の向きがどこで反転したのか——混乱の中で分からない。
けれど次の瞬間、刃先が赤く染まった。
「助けて! 人殺し! 誰か——!」
詩音が甲高く叫ぶ。
直後、ドンッ! と扉が乱暴に開いた。
神谷承吾が駆け込んでくる。状況を見て顔色を変え、すぐさま二人を引き剥がし、凶器のナイフを奪い取った。
「お前ら、いったい何を——」
言いかけて、承吾の言葉が途切れる。
神谷彩夏の掌は血で濡れ、滴が床に落ちていた。
目だけが異様に冴えていて、獣のように光っている。だが身体はふらつき、今にも崩れそうだった。
顔色は紙より白く、額には豆粒みたいな汗が浮いている。
その瞬間、承吾の思考が止まった。
無意識に手を伸ばし、彼女を支えようとする。抱き上げて、血の止まらない手を押さえようとする。
「承吾——っ」
詩音が歯を食いしばり、声を張った。
「彩夏さんが狂ったのよ! 理恵さんを殺そうとした!」
承吾の、上げかけた腕が——宙で固まった。
