第7章 やめろ、彼女を放せ

神谷彩夏のことなど構っていられず、神谷承吾は病床へ駆け寄った。

神谷理恵はなおも深い眠りに沈んでいる。だが外側に投げ出された腕には、生々しい裂傷がぱっくりと開き、衣服は血で染まりきっていた。傷口からは、まだじわじわと血が滲み続けている。

目を覆いたくなる光景だった。

「誰か! 来てくれ!」

承吾が病室の外へ飛び出して叫ぶと、ほどなく医師と看護師がぞろぞろと駆けつけた。簡単に状態を確認すると、ベッドごと理恵を押して出ていく。

その際、彼らは承吾にも言葉を添えた。

「神谷様、ご安心ください。神谷大奥様は大丈夫です。外傷ですので縫合して、少し輸血をすれば落ち着きます」

神谷承吾はようやく息を吐き、「……ありがとうございます。よろしくお願いします」と頭を下げた。

ストレッチャーが病室を出た瞬間、彼の怒鳴り声が壁を震わせた。

「神谷彩夏!」

信じられないという怒りが、その声に混じっていた。

承吾は彼女を睨み据える。

「お前……包丁を持って、母さんに何をするつもりだった? 殺す気だったのか? あの人が何年もお前を面倒見てきて、どこが悪かったんだ!」

神谷彩夏は立っているのもやっとで、ベッド柵に縋りつきながら、かすれた声で絞り出す。

「違う……私、そんな……」

すると、片頬を赤く腫らした菅野詩音が、嗚咽まじりに口を開いた。

「承吾……ごめんなさい。これ、私にも責任があるの」

「理恵さんに果物を持って入ったら、彩夏さんがベッドの横に立ってて……手に包丁を持ってたの。怖くて止めようとしたら叩かれて、それで……私まで殺されそうになって……。揉み合いになって、どうしてか理恵さんが……」

言いながら詩音はふらりと承吾に寄り、震える身体を預けようとする。

だが承吾は詩音を見ようとせず、神谷彩夏だけを見て冷たく言った。

「おい。喋れ」

神谷彩夏は答えることすら辛そうに、ゆっくり椅子へ腰を落とした。しばらく息を整え、それから感情の起伏のない声で言う。

「菅野詩音よ。最初はお義母さんの酸素チューブを抜いて、私のせいにするつもりだった。うまくいかないと分かったら、次の手に出たの」

一拍。

「……一つだけ、あの人の言うとおり。私は、あの女を殺したかった。でも理恵さんを傷つけるつもりなんて、欠片もない」

「嘘よ!」

詩音が甲高く叫び、涙をさらに溢れさせる。

「酸素のチューブだって、彩夏さんが慌てて掴んだだけ! 包丁も彩夏さんが持ったの! 調べれば分かるわ、指紋だって残ってるはず!」

「それに、私が理恵さんにそんなことするわけない……あんなに良くしてもらってるのに。感謝してもしきれないのに……。おかしいのは彩夏さんよ。承吾も、私も、理恵さんも、みんな殺すつもりだったんだわ!」

神谷彩夏は小さく息を吐いた。

「神谷承吾。あなた、まさか監視カメラも見ずに、その人の話だけ信じるほど馬鹿じゃないでしょう」

「監視カメラ」

その一言が出た瞬間、菅野詩音の身体が、ぴたりと固まった。

――しまった。監視カメラ。

顔に一瞬だけ焦りが走る。だがすぐ、より大げさな涙で塗り潰した。

詩音は頬を押さえてよろめき、弱々しく言う。

「承吾……頭が、くらくらする……ここも痛い……」

言い終える前に、目を閉じてふらつき、承吾へ倒れ込んだ。

「詩音!」

承吾が呼びかけても反応はない。腫れた頬には指の跡がくっきり残り、うっすら血が滲んでいた。

承吾は扉の外へ向かって吠える。

「医者! 看護師! すぐ来てくれ!」

病室はまた慌ただしくなった。

神谷承吾は菅野詩音を抱き上げ、外へ出ていく。扉口でふと足を止め、振り返りもせず言い捨てた。

「今日の件は警察を入れる。覚悟しておけ」

ちょうどその時、承吾の秘書が駆けつけた。

「神谷社長、何が――」

「ちょうどいい。今すぐ監視室へ行け。この病室の、30分前から今までの映像を全部出せ」

小嶋健は一瞬きょとんとし、それから頷いた。

「承知しました」

そのとき神谷彩夏が言った。

「私も行く」

神谷承吾が横目で見る。表情は読めない。

「……やましいのか」

神谷彩夏は淡々と返す。

「あなたの秘書を信用できないだけ」

小嶋健が困ったように承吾を見た。承吾は冷たく吐き捨てる。

「余計な真似をするな」

そう言うと、彼は大股で去っていった。

「奥様、こちらへ」

神谷彩夏はまともに歩けず、小嶋健は車椅子を用意して彼女を乗せ、そのまま押して行った。道中、二人は一言も交わさない。

監視室は管理棟1階にあった。

小嶋健が身分を示すと、当直の担当者は驚きつつも怠らず、すぐにVIP病棟最上階――神谷理恵の病室前廊下と病室内の記録を呼び出した。

だが、肝心の時刻へスライドさせる前に、モニターの映像がバチバチと激しく点滅し、次の瞬間、真っ黒な画面とノイズに変わった。

「……な、何だこれは」小嶋健が息を呑む。

神谷彩夏も言葉を失った。

担当者は眉をひそめる。

「信号が途切れています。予備回線を確認します」

しかしカメラ角度を変え、回線を切り替えても映るのは断片ばかりだった。雑音、引きつったフリーズ。映像はところどころ欠け、辛うじて見えるのは、菅野詩音が入室して、二人がしばらく話している場面まで。

そこから画面が固まり、次に映ったのは、神谷彩夏が突然包丁を手に詩音へ襲いかかるところ。揉み合いが病床のそばで起き、最後に神谷承吾が入ってくる。

それだけ。

神谷彩夏の胸が、じわじわと沈んでいった。

このタイミングで、しかも一番肝心なところだけ壊れる――そんな偶然があるはずがない。

小嶋健が険しい顔になる。

「社長へ報告します」

「復元は? 別のバックアップはないの?」神谷彩夏が食い下がった。

担当者は首を振る。

「通常の故障ではありません。意図的な妨害です。データの下層まで傷んでいて、修復は不可能です」

神谷彩夏は目を閉じた。

そのとき、監視室の扉がそっと押し開けられた。

現れたのは菅野詩音だった。

清潔な病衣に着替え、頬の腫れは残っているが、さっきよりずっと元気そうに見える。

「どう? 監視、確認できた?」と詩音が尋ねる。

神谷彩夏はその白々しさに胃がひっくり返りそうになり、刺すように言った。

「倒れるのは上手ね。目を覚ますのも早い」

小嶋健が取り繕う。

「菅野さん、技術的なトラブルが出まして、対応中です」

「トラブル……? そんな都合よく……」

詩音は眉を寄せ、心配そうにため息を落とす。

「それじゃ証拠が出ないってこと? 理恵さん、大丈夫かしら……承吾、焦ってるだろうな」

そう言ってから、神谷彩夏へ視線を移し、なおも気遣う口調で続けた。

「彩夏さん、手……まだ血が出てる。ちゃんと処置しなきゃ。顔色もすごく悪いよ」

「清美さんとお子さんのこと、あなたが辛いのは分かる。でも、だからって……理恵さんに手を出したら駄目。理恵さん、あなたにあんなに良くしてくれたのに……」

清美と子ども。

その言葉は、神谷彩夏にとって毒の呪いだった。呼吸が一気に荒くなる。血走った目で詩音を睨みつけた。

立ち上がり、今度こそ詩音に飛びかかろうとする。

詩音はさすがに学習したのか、小嶋健の背へ逃げるように隠れた。

「奥様! 落ち着いてください!」

小嶋健が慌てて間に入る。だが神谷彩夏は頑なに詩音へ手を伸ばし、喉の奥から獣じみた唸り声まで漏らしていた。

小嶋健も限界だった。両腕で神谷彩夏を支え、力尽くで椅子へ押し戻す。

その瞬間――

「やめろ! 離せ!」

扉口から、怒声が飛んできた。

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