第1章 誰を救う?

「音無真。ひとりはお前の妻、ひとりはお前の初恋だ。この二人の女、選べるのは片方だけ。――どっちを死なせる?」

船の甲板。海面から十数メートルの高さに、女が二人、吊るされている。誘拐犯が拳銃をかざし、怒鳴り散らした。

新婚当日、江口初姫はさらわれた。

十分前、無理やり薬を飲まされ、いまは四肢の奥まで激痛が走っている。立っているのがやっとで、純白のウエディングドレスは泥と潮にまみれ、見る影もない。

二択を突きつけられ、江口初姫は最後の希望を込めて岸辺の男を見た。冷たく、気高く、感情を一切見せない――婚約者の音無真。

「音無真……助けて……」

川瀬千茉も必死に声を上げる。頬には乾ききらない涙の跡。泣き濡れた目で縋りついた。

「真さん……本当に痛いの……」

音無真の瞳は底なしに暗い。ほとんど迷いもなく、答えた。

「俺は――彼女を選ぶ」

指さしたのは江口初姫。つまり、彼女を死なせるという意味だった。

江口初姫は息を呑み、目を見開く。胸の奥が真っ二つに裂けたみたいで、身体の痛みなど霞むほどだった。

川瀬千茉が彼の初恋だということは知っている。けれど、三年も一緒にいたのに。自分には欠片ほどの情もないの? 躊躇なく、死を選ぶの?

そもそも音無真は婚礼衣装ですらなかった。最初から、江口初姫と結婚するつもりなどなかったのかもしれない。

今日だって、彼が「待ってろ」と言ったから――そこを狙われた。

誘拐犯は意外そうに眉を上げ、次の瞬間、腹を抱えて笑った。

「さすが音無社長。情け容赦なしだな。結婚したての奥さんより初恋を取るとは、面白ぇ」

音無真が眉をひそめ、冷たく言い放つ。

「選んだ。さっさと放せ」

誘拐犯は川瀬千茉を突き飛ばすように前へやった。

「社長が選んだんだ。悪いな、江口さん。今日は死んでもらう」

言い終えるなり、銃口が江口初姫の額に押し当てられた。

――なのに。

川瀬千茉が近づいた瞬間、音無真は江口初姫を一度も見ない。千茉だけを、怯えるほどの警戒と焦りで確かめる。

「千茉、大丈夫か? 怪我は?」

川瀬千茉は下唇を噛み、首を振った。視線だけが迷いながら江口初姫へ向く。

「私は平気……でも、江口さんはどうなるの?」

江口初姫は何も言わなかった。

誰も気づかない。彼女の手の中には、ちぎれたロープの切れ端が握り締められている。角度によっては、まだ縛られているように見える。

――実は、連れ去られてすぐに、彼女は密かに縄を解いていた。

生きられる。逃げられる。

でも、いま――音無真が彼女を選んだ。なら、自分は死ななければならない。

「音無真。私がこの世でいちばん後悔してるのは――あなたを愛したこと」

死んだ目で、けれど揺るぎなく。

言い終えると同時に、江口初姫は振り返り、ためらいなく海へ身を投げた。

どぷん、と。

冷たい海水が一気にせり上がり、口と鼻を塞ぐ。

身を翻した刹那、音無真の叫び声が聞こえた気がした。けれど、もうどうでもいい。

荒れ狂う海が、江口初姫を丸ごと呑み込んでいく。

意識が途切れるその直前、彼女は思った。

――もし戻れるなら。二度と、音無真なんて愛さない。どれほどの欠片も。

……

「ははっ、見て。あの顔、ウケる」

「真さんに釣り合わないのよ。手段で取り入る女って、いちばん嫌い」

「でも泳げないっぽくない? プールに落として、真さんがキレたらどうすんの」

「平気平気。真さん、あいつ大嫌いだもん。昔、おばさんと真さんの世話してたから、仕方なく――ってだけでしょ」

嘲りと蔑みの声が、耳の奥に刺さってくる。

江口初姫は、はっと目を開けた。

視界一面、水。けれど海じゃない。――プールだ。

必死に手足を動かし、ばしゃばしゃと水面に顔を出す。

そこにいたのは、音無真の取り巻きたち。さっき彼女を突き落とした張本人。

頭の中が、ぶん、と鳴った。見開いた目に困惑が溢れる。

――どういうこと? なぜ、こんなに……。

これは、一年前の――音無真との婚約パーティーの夜。

考えている暇はない。江口初姫はプールの縁に爪を立て、濡れた身体を引き上げた。

全身びしょ濡れ。風が吹いた瞬間、ぶるっと寒気が走る。

背後から、不機嫌で、露骨な嫌悪を含んだ声が飛んだ。

「いつまでそこで恥さらしてるつもりだ?」

振り向くと、音無真の冷え切った目が真正面にあった。

優しさも心配もない。問いかけすらなく、最初から「恥さらし」と断罪する目。

取り巻きがすぐに口を挟む。

「真さん、あの女わざと飛び込んだんじゃないっすか? 真さんに助けさせて、英雄救美の芝居でもしたいんですよ」

音無真は眉をひそめ、隠す気もない苛立ちを滲ませた。

「誰が道化を助ける?」

江口初姫はその場で立ち尽くし、拳を強く握り締めた。

道化――。

前の人生の婚約パーティー。音無真は途中で姿を消した。

継母の増田梅は音無家との縁談の利益欲しさに、病床の外公を盾にして「最後まで婚約の儀をやれ」と江口初姫を追い詰めた。

あの日、江口初姫は川城最大の笑いものになった。

皆は「江口初姫がプールで醜態をさらしたから音無真が帰った」と思っていた。

違う。

彼は帰国したばかりの川瀬千茉に会いに行っていただけ。夜まで戻らなかった。

音無真が苛立たしげに言う。

「まだ突っ立ってるのか。早く着替えろ。客がもうすぐ来るだろ。こんな格好を見せる気か?」

江口初姫は、かすかに口元を吊り上げた。皮肉がにじむのを自分でも感じる。

何も言わず、踵を返す。

視界の端に、追ってくる増田梅が映った。

江口初姫が更衣室に入ると、増田梅もついてきて、低い声で釘を刺した。

「江口初姫、いい? 今日の婚約パーティーは絶対に成功させるのよ。少しでもしくじったら、江口家に戻れると思わないことね」

江口初姫は冷たい目で見返す。

「着替えるから、出て」

増田梅はさらに不満げに鼻を鳴らした。

「その口の利き方は何? 音無真があんたに冷たいのは、あんたが頭も悪いし、役に立たないからよ。とにかく、音無真が逃げたら覚悟しなさい!」

脅すだけ脅して、増田梅は出ていった。

江口初姫の瞳は、さらに冷えた。

濡れたドレスを脱ぎ捨て、普段の服に着替える。

更衣室を出ると、音無真はすでに客に囲まれ、媚びた言葉を浴びていた。

生まれつき、人の視線を集める男。そこに立つだけで、自然と目が吸い寄せられる。

音無真も江口初姫に気づいた。彼女の服装を見るなり、不快そうに目を細める。

だが今回は、彼に口を開かせなかった。

江口初姫はそのまま壇上へ上がり、用意されていたマイクを握る。

声は落ち着いていた。ひとつひとつ、はっきりと告げる。

「本日はお忙しい中、この婚約パーティーにお越しいただき、ありがとうございます。皆さまにお伝えしたいことがあります」

会場中の視線が、彼女へ集まった。

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