第2章 婚約破棄

「――音無真さんとの婚約は、解消します」

たったそれだけの言葉が、まるで人混みに爆弾を投げ込んだみたいに弾けた。

会場中が息を呑み、誰も彼も目を見開く。信じられない、という顔でこちらを見ていた。

江口初姫が、音無真の後ろを何年も追いかけて、ようやく取りつけた婚約だ。

たとえいつか破談になるとしても、それを告げるのは音無真の側――誰もがそう思っていたのに。

江口初姫は壇上から視線の海を静かに受け止め、顔色ひとつ変えない音無真を一瞥する。

そして指から婚約指輪を外すと、迷いなくプールへ放った。

ぱしゃん。

壇を降りて立ち去ろうとした瞬間、増田梅が歯を食いしばって追いすがり、手首を掴んだ。

「江口初姫、あんた正気!? もう婚約したのよ。いまさら何を見せ物にしてるの! 今すぐ壇上に戻って、皆の前で謝りなさい。頭がおかしくて、言い間違えただけ、破談なんてする気はないって!」

江口初姫は無表情でその手を振りほどいた。

「自分が何をしてるか分かってる。そんなに音無家との縁談が欲しいなら、あなたが嫁げばいい」

「……あんた!」

増田梅の凶悪な視線など気にも留めず、江口初姫はその場を離れた。

追いかけようとした増田梅が振り返ると、ちょうど音無真が歩み寄ってくるところだった。慌てて取り繕う。

「音無社長! 初姫が、ちょっと混乱してしまって……江口家に破談の意思はありません。どうかあの子のことは――」

音無真の冷たい視線が、去っていく江口初姫の背中を射抜く。

「女のそういう手口がいちばん嫌いだ。これは最初で最後だ」

増田梅の背中に冷たい汗が伝う。

「は、はい……必ず言い聞かせます」

そのとき、音無真のポケットでスマホがけたたましく鳴った。助理からだ。

「音無社長、川瀬さんが空港に到着しました」

「分かった」

音無真はそれだけ言って踵を返し、そのまま会場を出ていった。

――同じ頃。江口初姫は音無家にいた。

ここに置いてある私物はわずかだ。服が数着。スーツケースに詰め終えたところで、嘲るような表情の音無奥さんが姿を現した。

「どれだけ下品な手を使ったら、うちの子がようやく結婚に同意するのかしらね。嬉しいでしょう? でも嫁いできても、私はあなたを嫁として認めないわ」

江口初姫はスーツケースの取っ手を握ったまま、淡々と言った。

「誰を嫁にしたいかは、息子さんにその人と結婚させてください」

音無奥さんが目を剥く。

「私に口を利いてるの? その態度、何?」

嘲りが瞳いっぱいに満ちる。

音無奥さんが江口初姫を嫌っていたのは、今に始まったことじゃない。この数年、どれだけの罵倒を浴びせられたか分からない。

以前なら、音無真の顔色をうかがって、ただ耐えた。

――でも、もう違う。音無真すら捨てたのに、音無奥さんに気を遣う理由などない。

「ここに私たち以外、誰かいます?」

音無奥さんが怒りに声を荒らげる。

「ふざけないで! 聞いてる? 音無若奥さんになりたくないの? 今すぐ真に電話して婚約を取り消させるわよ!」

江口初姫は薄く答えた。

「必要ありません」

音無奥さんの口元に、勝ち誇った笑みが浮かびかける。

――が、次の言葉で表情が凍りついた。

「もう婚約は解消しました。それともう一つ。川瀬千茉が帰国しましたよ。あなたの息子さん、空港で迎えてるはずです」

「……何ですって?」

あの女が、また。

「先にあの子を片づけてくるわ。帰ったらあなたとも決着よ!」

吐き捨てるように言い残し、音無奥さんは足早に去っていった。

江口初姫は淡々としていた。

音無奥さんがこの世でいちばん嫌う二人――ひとりは江口初姫、もうひとりは川瀬千茉。

犬猿が噛み合うところを見物する趣味はない。前の人生で、散々見た。

何より、音無真はいつだって川瀬千茉の味方だ。

そして自分には、何もない。

江口初姫は深呼吸し、余計な思考を振り払う。前の人生の時間軸をなぞった。

半年後、祖母が亡くなり、柳川家――母が遺した財産の大半が呑み込まれる。

音無家は助けてくれない。困っても手を差し伸べなかった。

なら、備えるしかない。

祖母も、柳川家の財も守る。来週の土地の競売――そこが重要な分岐点。

思考を整理し終え、江口初姫は江口家へ戻った。

増田梅は婚約披露の件で気が狂いそうになっていて、大切にしている茶器までいくつも割っていた。

江口初姫の姿を見るなり、怒りの矛先が決まったように噴き上がる。

「よくも帰ってきたわね! 今すぐ音無家へ行って謝って、許してもらいなさい!」

「音無家を怒らせたら江口家だけじゃない。柳川家だって終わるのよ!」

江口初姫は冷たく言い放つ。

「音無家とは完全に決裂した」

音無真に謝る?

あり得ない。顔を見るだけで、前の人生、海水で息ができなくなったあの痛みと絶望が蘇る。

増田梅は胸を押さえ、荒い息を吐いた。

「私を本気で殺す気!?」

「あんた、何年も真の後ろを追いかけて……今日のためだったでしょ! 結婚寸前で、今さら反故にするなんて!」

江口初姫は聞いていないふりをした。

いま振り返ると、自分がやってきた愚かなことの数々が滑稽で仕方ない。

増田梅は必死に冷静を装う。

「真はいま、あんたがまだ駆け引きしてると思ってる。よし、私と一緒に音無家へ行くわ。必ず許しをもらう!」

江口初姫は笑いそうになった。

公衆の面前で破談を宣言しても「駆け引き」扱い。音無真はどれだけ自分に酔っているのか。

――でも、もう違う。

音無真を愛していた江口初姫は死んだ。あの海で。

きっぱり言う。

「行かない」

そこへ、階段を降りてきた江口姫希が口を挟んだ。

「お母さん、言っても無駄よ。この人は音無真に嫁ぐ運がなかったの。謝りに行ったって、音無家は許さない」

江口初姫は相手を値踏みするように眺めた。

江口姫希――父違いの妹。彼女の小さな野心は前から知っている。音無真に嫁ぎたいのだ。

案の定、次の言葉が来た。

「お母さん、いっそ音無家に話して、私が代わりに嫁ぐのはどう? それなら両家の協力関係も続けられる」

江口初姫は大きく頷いた。

「いい案だと思う」

音無家に嫁げば幸せになれると本気で思っているなら、存分に味わえばいい。

自分が夢見た「いい暮らし」が、どんな地獄かを。

増田梅は眉をひそめる。

「だめ」

江口姫希が焦って声を荒らげた。

「なんで江口初姫はよくて私がだめなの!? 同じ江口家の娘よ、誰が嫁いだって同じでしょ!」

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