第3章 目が覚めた

増田梅は黙り込んだ。

音無家が認めるのは、江口初姫だけ——。

江口姫希は増田梅の腕をぶんぶん揺すり、甘えるように言った。

「ママ、お願い。助けてよ。こんなチャンス、二度とないんだから」

増田梅はまとわりつかれて苛立ち、吐き捨てる。

「だめなものはだめ。音無家がどれだけ厄介か分かってる? 替え玉嫁なんて、絶対に認めないわ」

江口初姫は口元だけをつり上げ、のんびり言い返した。

「機会はもうあげた。掴めないのは、あなた自身でしょ」

「……あんた!」

江口姫希は一瞬で言葉を失った。

このクズ——わざわざ嫌味を言ってくるなんて。

江口初姫は冷ややかな視線を一度だけ投げ、くるりと踵を返して二階へ上がった。

自分の部屋は二階——のはずだった。

だが中は江口姫希の私物で埋め尽くされている。江口初姫は眉を寄せた。

「誰か」

家政婦が慌てて駆けてくる。

「お嬢様、どうなさいました?」

江口初姫は指先で部屋を示した。

「江口姫希のもの、全部外に出して。部屋を空けて」

家政婦の顔が引きつる。

「お嬢様……そこは次女様のお部屋で……私、怒られるのが……」

江口初姫は淡々と訂正する。

「違う。ここは私の部屋」

階下から足音がどたどたと響き、江口姫希と増田梅が駆け上がってきた。

江口姫希の目は火が出そうだった。

「江口初姫! なんで私の荷物を捨てさせるの!」

増田梅も歯を食いしばる。

「江口家は、あんたが好き勝手に暴れる場所じゃないわ」

江口初姫は眉を上げ、二人を見下ろした。

「音無家と関係を繋ぎたいなら、私の言う通りにして」

その一言で、増田梅は口を噤んだ。

音無家との「利益」なんて些細なものだ。怖いのは、音無家の怒りに巻き込まれること。

この家がどうなるかは——江口初姫次第。

増田梅は頭痛を堪えるみたいに言った。

「……部屋、空けなさい」

江口姫希は目を見開く。

「ママ! 私、この部屋に何年も——」

増田梅はため息を吐く。

「いいから。言うことを聞きなさい」

江口初姫はかすかに唇を曲げた。

増田梅の急所がどこかなんて、とうに分かっている。

「それと」

江口初姫の声が、さらに冷える。

「母が遺した遺品——宝飾品も、骨董も。全部、返して」

増田梅はぎらりと睨む。

「江口初姫、調子に乗らないで」

江口初姫は鼻で笑う。

「私が? それともあなたが? 母のものを何年も占有して、もう自分のものだと思ってた?」

増田梅は言い返せず、唇を噛んだ。

——この件さえ片づけば、真っ先に叩き潰してやる。そんな殺気だけが目に滲む。

「……明日、渡すわ」

江口初姫は一歩も引かない。

「今」

増田梅の顔が青緑に染まり、しばらく歯ぎしりしてから、部屋の金庫へ向かった。

やがて遺品一式を抱えて戻り、乱暴に差し出す。

「全部ここにある」

江口初姫は受け取り、ひとつひとつ確認する。

そして、ふと呟いた。

「……いくつか足りない」

増田梅が露骨に動揺する。

「何も足りないわよ。ずっと金庫に入れてたんだから。誰も触ってない」

江口初姫の目が凍る。

「私、把握してる。ルビーのネックレスが一本。瑪瑙の指輪が二つ」

「総額は億単位。弁護士を立てて損害賠償請求もできる。法廷に立ちたくないなら——返して」

増田梅は憎しみで顔を歪め、奥歯をきしらせた。

——数日前までとは別人みたいだ。どうして?

「探すわ。どこかにしまったのかも……忘れてただけ」

江口初姫はその稚拙な嘘を相手にせず、スマホの着信に目を落とした。

親友の神谷柊からだ。

「初姫、今忙しい? あんたん家の下で待ってる」

「分かった。すぐ行く」

宝飾をしまい、階下へ降りると、神谷柊のフェラーリが停まっていた。

乗り込むなり、神谷柊が身を乗り出す。

「今日の破談、もう界隈で大騒ぎよ。あんた、ずっと音無真のこと好きだったじゃん? 本当に退婚するの?」

江口初姫は口元を歪めて笑った。

「前は私が馬鹿だっただけ。今は目が覚めた」

「音無真の心には、ずっと川瀬千茉がいる。嫁いでも幸せになれない」

神谷柊は力いっぱい頷く。

「音無真はすごいけど、任せる相手じゃない。……ただ、ここまで派手にやると面倒が増えるよ。音無爺様は認めるの?」

その点は、江口初姫も気がかりだった。

この縁談をまとめたのは音無爺様だ。表で宣言しただけでは終わらない。最終的に彼が手を引かなければ、破談は成立しない。

「今は一歩ずつ。爺様を敵にしたくない。でも、音無真にも会いたくない」

神谷柊は短く返す。

「何があっても味方する。困ったらすぐ言って」

江口初姫は今日初めて、心から笑った。

「うん」

退婚の件は神谷柊の言う通り瞬く間に広がり、翌日には完全に炎上していた。

翌朝、外へ出ると芸能ゴシップの記者たちに囲まれる。

フラッシュがぱちぱち焚かれ、マイクが顔へ突きつけられた。

「江口さん、音無社長を長年愛していたのに、なぜ突然、公衆の面前で退婚を?」

「理由は? 視聴者が皆、知りたがっています」

江口初姫はそのまま去るつもりだった。だがふと足を止め、カメラへ微笑む。

「退婚には……事情があります」

記者たちが身を乗り出した、その瞬間。

江口初姫はゆっくり言い放った。

「音無真が——不能だからです」

一瞬、空気が凍りついた。

誰もが破談の理由を想像していた。だが「生理的欠陥」だけは、誰も思いつかなかった。

権力の頂点にいる男が、不能。

それで退婚——。

明日のトップニュース確定だ。

江口初姫は言い切ると、颯爽と背を向けた。

十数秒の映像が一気に拡散し、ネットは燃え上がる。

その映像を見た音無真の顔色は、瞬時に鉄青になった。

「江口初姫……!」

そして、インタビューが出回った翌日。

江口初姫が狙っていた案件が、音無真に横取りされていることが判明した。

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