第4章 求めても無駄だ
音無真の報復は、江口初姫の想定内だった。
今世は自分の足で立つと決めた以上、もう音無家に頼ることはできない。それどころか、母方の一族の財産を守るために戦わなければならない。こんな小さなつまずきで折れるほど、江口初姫は甘くなかった。
彼女は淡々と戦略を切り替えた。損をするどころか、むしろ当初の見込みより利益を伸ばし、その結果、柳川家の内側でも一定の評価と発言力を得る。
前世、柳川家がじわじわと呑み込まれていった運命を――自分の手で、少しずつ書き換えている。そんな実感があった。
一方で、音無真のほうはそうはいかない。
前回の『音無真は不能』というトレンドはすぐ沈静化した。だが、消えたはずの噂は棘みたいに刺さったまま、四六時中彼に告げてくる。
――江口初姫に、一杯食わされた。
それは誰の目にも明らかな屈辱で、だからこそ余計に許せない。
会社へ行けば行くほど、周囲の視線が妙にねちつく。揶揄と好奇が、薄い笑いに混ざってまとわりついた。
「江口初姫は、まだ動かないのか?」
音無真は苛立たしげにペンを机へ放り投げた。
「引き続き動向を追え。あいつが何をしようと潰せ。江口初姫が自分の足で頭を下げて、俺に泣きついてくるまでな」
部下が言い淀む。
「音無社長……」
「言え」
男は声をさらに落とした。
「江口さんが……社長のやり方は悪質な競争行為に当たる、と。これ以上続くなら、弁護士を立てるそうです……」
音無真は椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「江口初姫……よくも、そんな真似ができるな」
その日、音無真は川瀬千茉との約束を一方的に反故にし、自ら車を出して江口初姫のマンション前に待ち構えた。
「江口初姫、今すぐ降りてこい。来なければ、お前も江口家も後悔させる」
江口初姫は眉をわずかに上げただけで、どうでもよさそうに通話を切った。
江口家がどうなろうと、知ったことではない。継母に押し込まれたあの日が最初の歯車の狂いで、そこから転落が連鎖した。
――それでも、江口初姫は下へ降りた。音無真に会いたいからではない。さっさと決着をつけるために。
流線の美しいマイバッハが停まっている。音無真は陰った眉目で、指の間に煙草。足元には吸い殻がいくつも転がっていた。
煙越しに目が合う。
江口初姫の意識が、一瞬だけ揺らいだ。
端正な顔立ち。生まれつき身にまとった高貴さ。大学時代から圧倒的に人気で、彼女も遠くから見上げる側の一人だった。
彼の心を得ようなんて、最初から思っていなかった。音無真が自分と結婚したがらないことも知っていた。だから、せめて傍にいられれば――。
その瞬間、喉を塞ぐような冷たい海水の痛みが、ぶわっと蘇った。
江口初姫は自嘲気味に笑い、すぐに表情を切り替える。
「……何の用?」
音無真は答えない。深い長い目を細め、江口初姫をじっと観察する。
――妙だ。
今の彼女は、少し前までの執着の匂いがない。まるで本当に、振り返らずに去っていきそうな。
だが音無真はすぐに鼻で笑い、値踏みするように言った。
「それが新しい芸か?」
江口初姫はその視線が不快で、目を細める。
「どういう意味」
「つれないふりをする。どれだけ媚びても俺に好かれないと悟って、やり方を変えたんだろ。俺の注意を引きたいんだ」
音無真は煙草の火をもみ消し、見下すように吐き捨てた。
「無駄だ。くだらない真似はやめろ。余計に嫌いになる」
江口初姫は思わず笑ってしまった。苛立ちというより、呆れに近い。
「わざわざ来て、言いたいのそれだけ?」
昔の自分は、どうしてこんな男に振り回されていたのか。
音無真は眉をひそめ、さらに苛立ちを滲ませる。
「それとトレンドだ。もう下げた。今後は余計なことを言うな。音無家の評判に傷がつけば、お前にも得はない」
そして命令口調で続けた。
「今ここで公に謝罪して、俺に許しを請え。挽回する余地はある」
「何に対して謝るの?」
江口初姫は肩をすくめる。
「婚約破棄? それとも――」
わざと間を置き、視線を音無真の下半身へ落とした。
音無真の顔色が変わる。
「お前……恥を知れ!」
けれど、今日ここに来た理由がそれであることは否定できない。音無真は歯を食いしばり、低い声で言う。
「デマなら、今日中にメディアへ訂正しろ」
江口初姫は腕を組んだ。
「悪いけど、無理」
「だって私、あなたのために『それ』を否定してあげる術がないもの。川瀬さんのほうが適任じゃない?」
その気になれば、世間に見せればいい。音無真が「不能」どころか、外で女と甘い時間を過ごしている現実を。
「……いい。いいだろ」
音無真は車のドアを乱暴に閉め、怒りを噛み殺した声で吐き捨てた。
「後悔するなよ。意地を張り続けろ。跪いて泣きついてきても、もう遅い」
「音無社長、どうぞご自由に」
江口初姫は淡々と、車が発進するのを見送る。
滑らかに走り去ろうとした、その瞬間。
「待って」
呼び止められ、音無真が振り返る。唇に冷笑を浮かべた。
「どうした、もう後悔か?」
謝罪を待つような、薄い笑み。
江口初姫は表情を崩さない。
「違う。私も婚約を解消したい」
言い直すように、淡々と言葉を重ねる。
「あなたが『離婚』したくないなら、今日きちんと話をつけよう」
音無真の目が、さらに不可解なものを見るように細くなる。
――手段を使ってでも嫁ぎたがったのは、お前のほうだろう。
江口初姫は一歩も引かずに続けた。
「破談自体は協力する。でも最終的には、お爺様の了承が必要。二人で説明しに行こう」
音無真はゆっくり目を閉じ、息を整えた。
「今からお爺様のところへ行って、婚約破棄を言うつもりか?」
「そう」
音無真は可笑しそうに笑った。拳が、ぎゅっと握り潰される。
怒りだ。江口初姫に弄ばれている、という怒り。
江口初姫は迷わず助手席に乗り込んだ。
道中、会話はない。音無真の空気は重く、江口初姫は意に介さない。
本家に着くと、お爺様は書斎で筆を執っていた。古典雅致な設えの室内。二人の気配にも顔を上げず、低く命じる。
「座れ」
だが二人とも座れなかった。
お爺様はふっと笑い、穏やかに二人を見る。
「どちらも言わないのか?」
そして声音を落とした。
「年寄りだが、ニュースくらい見る。婚約パーティーをああも荒らしておいて、私が知らないと思ったか」
言葉の途中で、表情がわずかに険しくなる。筆を置き、威圧を纏って音無真へ向けた。
「言え。お前が何かして、初姫を怒らせたのか?」
音無真は陰った顔のまま黙り込む。
江口初姫が先に口を開いた。
「爷爷、破談にしたいのは私です。私たちは合いません。早いほうがいい」
「かばう必要はない」
お爺様は手を振り、その言い分をあっさり退けた。
孫が冷淡な性格なのは分かっている。だからこそ、江口初姫の存在がどれほど貴重かも分かっていた。人としても、家の価値としても――彼の目には、江口初姫こそが最も相応しい孫嫁だった。
深く息を落とし、江口初姫に問いかける。
「彼が裏切ったのでないなら、破談は認められん。理由を言いなさい」
