第5章 以前の恋人から少し離れる
音無爺様まで、江口初姫の婚約解消を認めない。
江口初姫は唇を噛み、言葉に詰まった。
音無家で、彼女にまだ「まとも」に接してくれるのは音無爺様だけだった。
自分が重んじられている理由も理解している。母方の家の古美術の商いが、音無家に利益をもたらすから。――それでも、たとえ利害が絡んでいようと、音無爺様が自分に冷たくなかった事実まで否定はできない。
そして今、理由を言えと言われても。
江口初姫の心を殺した唯一の理由は、口に出せなかった。
重生したことなど、まして前世で音無真に見殺しにされ、冷たい海の底へ沈んだことなど、どう話せというのか。
俯いたまま、しばらく沈黙する。
やがて、掠れた声で口を開いた。
「私は……その……」
「ふん」
短い嗤いが落ちた。
刺々しい、意地の悪さを隠しもしない女の声。顔を上げなくても分かる。音無奥さんだ。
ちょうど会話を聞きつけたのだろう。音無奥さんは入ってくるなり江口初姫を値踏みし、鼻で笑った。
「理由? そんなの決まってるじゃない。こんな手で私たち音無家に譲歩させて、将来の音無若奥さんとして、もっと甘い汁を吸いたいんでしょ」
空気が一気に冷えた。
音無真ですら顔を曇らせ、低い声で制する。
「母さん、先に出て」
「は? 何よ。あんた、まだこの女を庇うつもり?」
音無奥さんは息巻き、指を振ってまくし立てた。
「真、あんたは分かってないのよ。女の手口ってものを。婚約宴でわざと騒ぎを起こして、皆に私たちの笑いものにならせて、音無家を引くに引けない状況にした。あとはこっちが折れて条件を上げるのを待ってるだけよ!」
江口初姫はこめかみが跳ね、堪えきれず眉を寄せた。
「音無奥さん。婚約解消は私の意思です。音無家から何の得も求めません」
「ふふ……」
音無奥さんは腕を組み、斜に睨む。完全に「駆け引き」だと決めつけた目だった。
「なら、どうして早く言わないの? なんで婚約宴の当日に言うのよ」
――その場で言うしかなかったから。
生まれ変わったのが、そのタイミングだったから。
けれど、そんなことを言えるはずもない。
江口初姫は口を開きかけて、閉じた。
黙ったことで、音無奥さんの中では「図星」になったらしい。苛立ちがさらに膨れ上がる。
ここ数日、奥様連中の集まりで向けられた探る視線。笑いものにされた屈辱。全部、目の前の女のせいだとでも言いたげに。
「いい? 婚約宴を潰したのはあんた。音無家は二度と『償いの場』なんて用意しない。さっさと消えなさい。破談? するなら今ここでしなさい!」
それは音無奥さんにとって願ってもない展開だった。江口初姫が泣きついてくる姿を待っている。
「母さん!」
音無真が苛立ちを押し殺した声で釘を刺す。
「爺様の前だ。言い過ぎるな」
音無奥さんはようやく我に返り、取り繕うように音無爺様のほうを見た。
だが音無爺様は冷ややかに顔を背け、愚かな嫁を視界に入れるのすら嫌だというように息を吐く。
目先の勝ち負けと体面だけ。浅い。
音無爺様が見ているのは、江口初姫の背後にある母方の家の底力と、人脈、そして音無真への助力だった。表に見えるものより、見えない利益こそが大きい。――いや、利害だけではない。
江口初姫は、彼が見て育てた娘だ。
昔から品行は正しく、音無真を慕い、黙って支えてきた年月も知っている。そう簡単に「散れ」とは言えなかった。
音無爺様は手をひらりと振り、音無奥さんに命じた。
「はつに果物と菓子を出せ。客が来ているのに、もてなしの一つもないとはどういうことだ。みっともない」
音無奥さんは唇を噛み、悔しさを飲み込んで出ていった。
その後、音無爺様は沈んだ鋭さを宿す目で二人を見比べ、淡々と言う。
「真も出ていけ。はつと二人で話す」
書斎に残ったのは二人だけ。
江口初姫は喉の乾きをこらえ、言葉を探す。
「爺さん……」
「よい」
音無爺様は穏やかに手を振り、机に腰を下ろした。
「墨を磨ってくれ。最初に来た頃、お前がいちばん落ち着いていてな。磨る墨の具合がちょうど良かった」
江口初姫は唇を結び、かすかに笑った。
祖父母の次に温かかったのは、この人だった。
――嘘をつきたくない。
静かに墨を磨りながら、ぽつりと言った。
「爺さんは、私が軽率だと思ってますよね。思いつきで騒いでる、と」
音無爺様は否定しない。
江口初姫は続ける。
「でも、私……怖いんです」
「この家では、ワシが支えてやる」
江口初姫は苦く笑い、首を振った。
「それでも。もし私が死ぬなら?」
音無爺様の手が止まる。筆を置き、目を細めた。
「どういう意味だ」
江口初姫は俯いたまま、震えを隠さず言葉を紡ぐ。
「爺さんは知ってますよね。私は子どもの頃から水が怖い。そんな私が、婚約宴で自分からプールに近づいて落ちるはずがない」
音無爺様の眉がわずかに動く。
江口初姫は目の縁を赤くし、弱さを隠さずに続けた。
「でも、落ちたことで……夢を見ました。もし音無家に嫁いだら、いつか音無真に海へ突き落とされて――溺れ死ぬ夢です。あまりにも本物みたいで……私はもう、続けられません」
声がかすれた。
「私は、死にたくない」
音無爺様は眉を寄せ、現実へ引き戻すように言う。
「夢だろう」
江口初姫は首を横に振った。
「でも、夢の中のことが当たっていたら?」
そして、決定打を落とす。
「爺さんはまだ知らない。川瀬千茉は婚約宴の当日に帰国していました。音無真は、爺さんにまで隠した。私がどうして知ってると思います?」
音無爺様の目に、確かな驚きが走った。
「……夢で?」
「はい」
沈黙が落ちた。
音無爺様は深く息を吸い、筆を置く。しばらくして、重々しく口を開いた。
「考えよう。だが、偶然だけで決めるのは早い。今すぐは認められん」
江口初姫は目を伏せた。
音無爺様は続ける。
「こうしよう。真にもう一度だけ機会をやる。夢の通りのことが、もう一つでも起きるなら――そのときは、お前を危険に置かない」
婚約は、まだ解消できない。
江口初姫は落胆したが、それでも想像より遥かに良い。音無爺様が本当に自分を案じている証だった。
川瀬千茉が戻っている以上、音無真が再び過ちを犯すのは時間の問題だ。
江口初姫は静かに頷く。
「分かりました、爺さん。いつか婚約を解消することになっても、爺さんはずっと私の爺さんです」
「いい子だ」
二人で階下へ降りる。
川瀬千茉の件を聞いた音無爺様は、音無真を見る目が一気に険しくなった。
居間で待っていた音無真を見るなり、鼻を鳴らして叱りつける。
「婚約した身で、家に寄りつかんとは何事だ! 今日からその『昔の女』とは距離を置け。さもなくば、もう一度国外に追い返すこともできる」
