第6章 ぐっすり眠る
音無爺様が突然、矛先を変えた。
その刃が向いたのは――密かに帰国していた川瀬千茉。
音無真は不意を突かれて胸がひゅっと縮む。反射的に口をついて出たのは否定だった。
「……何をおっしゃってるのか、分かりません」
「ふん!」
音無爺様は鼻を鳴らし、怒気を隠しもしない。
「この期に及んで、まだ私に隠すつもりか? まさか私が耄碌したとでも思ったか!」
さっき書斎で江口初姫が言ったこと――あれには、確かに筋が通っていた。
もし今日、初姫が教えてくれなければ。真が川瀬千茉の帰国を隠していたことも、わしの目の届くところで後ろ暗い真似をしていたことも、知らずにいたのだ。
しかも、それを未婚妻である初姫から聞かされるとは。
孫の不始末を、孫の婚約者に告げ口されて知る――。
婚約破棄の一件で「落ち着きが足りん」と思っていた不満は、そこで決定的なものに変わった。
音無爺様は真へ、低く言い渡す。
「よく覚えておけ。もう少し身を慎め。胡散臭い連中とつるむな。お前もいい歳だ、そろそろ遊びは終いにしろ」
音無真の顔色が沈む。
「……分かりました、爷爷」
音無爺様の半歩後ろを、真と初姫が並んで歩く。
その短い距離で、真は堪えきれない苛立ちを吐き出した。
「これが目的か。満足したか?」
そして、嘲りを滲ませて言う。
「俺は知ってる。お前はそういう、しつこい女だ」
江口初姫は眉をひそめた。わけが分からない、という顔。
「……何の話?」
真は薄く笑い、すべて見透かしたように続ける。
「爷爷に告げ口したんだろ。事情を大げさにして味方につけて、後ろ盾を作るつもりだった。お前は今日、離婚のために来たんじゃない。千茉を潰すために来たんだ」
見下すような視線。露骨な嫌悪。
それに混じる、言葉にしづらい失望まで。
――少しは骨のある女だと思っていたのに。
だが初姫は、真の脳内の筋書きなど知りようがない。
ただ、面倒くささだけが募る。
「川瀬千茉が帰国したのは事実でしょ。婚約の日、あなたが彼女に会いに行ったのも事実」
淡々と、突きつける。
「自分でやったことを、勝手に私のせいにしないで。心当たりがあるから、そんなに噛みつくんじゃないの?」
音無真の喉が、ぐっと詰まった。
――いつからだ。
江口初姫は、こんなに口が立つ女だったか。
苛立ちは、失望を塗り潰していく。
「千茉に何かあったら……一生後悔するぞ」
初姫は内心でため息をついた。論理が繋がっていない。
最後の糸のような忍耐すら、そこで尽きる。
「関係ない。信じるかは勝手。でも、勝手な妄想で私を測らないで」
言い切り、わざと間を置いた。
視線を、真の下腹部へ落とす。
「忘れないで――あなた、私に弱み握られてるでしょ」
音無真の顔が一気に暗くなる。
顎がぎしりと軋むほど食いしばり、拳が震えた。羞恥と怒りが、腹の底から噴き上がる。
階下へ降りると同時に、真は背を向けた。
「送れ。江口さんを帰せ」
そして振り返り、冷たく笑う。
「未婚妻になりたくないなら、ここに居座る理由もないだろ」
「今すぐ帰ります――」
初姫がそう言いかけたところで、横から有無を言わせぬ声が落ちた。
「初姫は今夜泊まれ」
「爺様……」
断ろうとした初姫へ、音無爺様は鋭く問い返す。
「用事があるのか?」
言葉が詰まった。
この人の前では、嘘が通らない。
結局、音無爺様の強引な采配で、真と初姫は同じ部屋へ押し込まれた。
ひとりは顔面蒼黒、ひとりは無言。
扉が閉まる。
真は、初姫が喜ぶ顔をすると思っていた。
だから吐き捨てる。
「狙い通りだな」
――だが。
初姫は真を一度も見ない。無言で脇をすり抜け、押し入れから布団を出して床に敷く。ぱさり。
そのまま服のまま横になった。
「江口初姫!」
真が低く唸る。
ますます、この女が何をしたいのか分からなくなる。
初姫は終始、真を視界に入れない。眠りを邪魔されたくもない。
夜更け。部屋はしんと静まり返り、かすかな呼吸だけが二つ。
早く横になったのに、初姫はなかなか眠れなかった。胸の奥に、鉛みたいなものが沈んでいる。
スマホのメモを開く。
自分に仕事を与えて、思考を散らす。
――前世。
あれは天の警告だったのか。それとも本当に、自分は冷たい海で死んだのか。自分でも分からない。
けれど音無爺様が検証を望むのなら、自分だって確かめたい。
思い出せる限りの「これから」を、細部まで書き留めていく。
「婚約宴の後、柳川家の株主が資金調達……半月後、海外のマイナー株が急騰……産業の崩壊、政策優遇の変更……」
万単位の文字。役に立つかどうかなんて、今はどうでもいい。
とにかく全部、残す。
前世は慌ただしかった。
特に婚約後は、息をする暇もないほどだった。音無奥さんの当たりに耐えながら式を進め、外からの圧に晒される柳川家を支え――気づけば足が地につかない毎日。
それなのに。
驚くほど細かく、覚えている。
――選び間違えた。
今回は、もう音無真を愛していない。
だからこそ、周りの動きが見える。頭がこんなに冴えたことはなかった。
最後に、ひとつの名を打ち込もうとして。
指が止まった。
胸が痛い。深い悔いが、指先まで絡みつく。
周防宴久。
初姫は目を閉じ、スマホを胸に押し当てて息を吐いた。
前世での最大の後悔は、自分自身より――この男だ。
数少ない「善意」を向けてくれた人。
周防宴久は周防家の掌権人。音無真より格が上で、財も、容姿も、謎めいた影も持つ。
当時の自分は音無家に縛られ、彼の好意の価値に気づけなかった。
気づいた頃には――車の事故で亡くなっていた。
もし今世、周防家と繋がれたら。
母の財産を取り戻す道は、ずっと近くなる。
胸の中に、かすかな灯がともった。
その頃。ベッドの上の音無真も眠れずにいた。
何度も床の布団へ視線を投げ、ついに堪えきれず起き上がる。
「頼めばベッドに上げてやっても――」
言いかけた瞬間、床のほうから、すぅ……と小さな寝息。
続いて、規則正しい寝息が部屋の静けさを塗り替えた。
江口初姫はもう、ぐっすり眠っていた。
